今年5月から改元で元号が変わる。つぎの年号は何になるんだろうと小中学生からこの頃よく尋ねられる。質問した当の生徒の苗字や名前を茶化してそのままにほかの生徒が答える。

 昭和から平成に移り変わる時に自分は中学3年生だったのでよく覚えているが、改元にあたっては確か、昭和天皇の生前、重篤な病いに罹っていたさなかに、国文学者や歴史家など数十名の専門家が3日間ほどで決めたという話を伝え聞いたことがある。今回はどうせなら国民の公募で決めたらと思うが、どうもそういうことにはならないようだ。

 平成元年からもう30年も経つのかと思うが、当時、 昭和から平成に変わるという官房長官の発表があった1989年1月8日、自宅の居間でTVのニュースをみていて、傍らにいた母親が、昭和がとうとう終わったのねと涙声でつぶやいたこと、それに半ば驚いた15歳の自分がいたことが個人的にはいちばんの記憶として残っている。

 因みに昭和19年(1944)生まれの彼女はその当時45歳になる年で、現在の私とちょうど同年齢なのであるが、戦争末期にいまの中国東北部(満州)で生まれ、終戦前に祖母の実家の宮崎の延岡に、そののち敗戦の混乱のなかで祖父の実家の千葉の佐倉に生活の拠点を移した。若い頃、たいへんな生活上の苦労があり、高度成長期のさなかに結婚し、家庭を築いてきたという履歴のある種の重さはだいぶ後になって知った。その履歴が母をして息子の傍らで涙を流させたのではないかと今になって推測するが、翻って私の場合、平成から改元されるにあたり、そのような両親世代の、直接生存にかかわるところでの履歴の深みや重みは正直なところ見当たらない。

 平成という時代を個人的に総括すると、昭和48年生まれの私やその世代にとっては、幼少期・思春期までは何やらぼんやり自由に牧歌的に過ごしていたのが、10代後半にバブルがはじけ、それから21世紀になって、個人としての生きかたの選択を個人の自由のなかでの選択ではなくて、むしろ急速に変わりつつある社会のほうから外的な圧力として迫られたイメージがあるように思われる。もちろん社会が移り変わる、環境が変わる、そのなかであってもそれにより個人の生き方や考え方が完全にシフトチェンジすることはないだろうし、さまざまな生き方、感じ方がある。また逆に、個人はある時代の制約のなかで生きるほかないのであって、そこに人間としての普遍性や真理を見出そうにも、時代と社会の影響や空気にまったく無縁ではあり得ないだろう。

 こうした意味で今回は個人より、社会の変化や世代についてちょっと重きを置いてひとり考えたい。ぶつぶつ…。

 たとえばフリーターということばがあった。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」ということばが流行したバブル期のさなか、昭和と平成の端境期に登場したことばだった。当初は終身雇用制にとらわれない、あたらしい働きかたという意味で 個人の多様なライフスタイルの位置づけのひとつとして世の中に好意的に解釈されていたように思う。それがわずか10年のあいだで21世紀に移り変わるころには、フリーターは不安定な非正規雇用やニートということばと意味的に全く等値になった。私はそれを経験をしてきた世代である。そして世の中のモードがまるで服の流行のように変わるのを何となくぼんやり経験した世代なのだと思う。決して親世代のように劇的で、先鋭的ではない。思春期を経てある時期まではゆるやかであったかもしれない。

 さて経済が回らなくなった結果、社会も回らなくなり、社会が回らなくなったために人間も劣化するのだろうか、というひとつの刺激的な問いが、もうだいぶ以前から存在している。そして社会の移り変わりをぼんやりみてきたうちのひとりである私にとって、自由とか多様性にたいするひとの要求があるものの、確実にそれが社会のうちに包摂できずに損なわれてしまっていることを感じている。

 私は平成の30年は、経済が回らなくなり、あまつさえ社会も回らなくなってきた蓄積とツケまわしの30年であったとつくづく思う。世の中はよい方向に向かっていない。しかし人間はだめな社会ではだめになるだろうか。だめな社会では人間が輝く、と言った故小室直樹のようなひともいた。そのような人間がたんなる優等生やもともとの多数派から出てきたためしは歴史上おそらくないので、私はそこをとても面白いと思っている。

 特に私の塾に来てくれている子どもや青年に伝えたいが、かりに自分のほんとうの気持ちと多数派の動きがそれていたとしても、第一に自分の気持ちのほうを大事にして、その部分に迷いやわからなさがあったとしてもいいのではないかということ。そして第二にどんなにつたなくても、またどんなかたちであっても、自分の感じたこと思ったことを自分の周りに向かって表現するほうが、じつは社会のためにもいいのではないかということだ。(つづく)