わたしどもの塾にはさまざまなニーズを持ったお子さんや、青年が通っています。そのニーズを大別すると4つに分かれます。
はじめに、学習の習慣を身につけたい、勉強の仕方をマスターしたい、というもの。
2つ目は、中高生などで定期テストの点数を上げたい、というもの。
3つ目は、中学・高校・大学受験をひかえ、志望校に合格したい、というもの。そしてこの3つが複合したニーズが4番目です。

上記のニーズは、もちろん多くの親御さんがお子さんに対してかけられる期待や要求のイメージとほぼ重なっていて、なかには無理やりお母さんに腕を引っ張られて塾の見学にやってくるお子さんもまれにいます。

多くの子ども・青年の声と社会が求める教育

ところで、折に触れて思うのは、時代を問わず今も昔も、子どもたちの多くが手ごたえのある人間関係を求めていて、それに年長者のおとな(私)はどう応えるのか、ということです。

塾という学びの空間でも、他者とのかかわりを上手に、または不器用に経験しながら「他者から認められたい、そしてその関係性のなかから自分を立ち上げていきたい…」というような、子どもたちのしぜんな欲求の発露をしばしば見い出します。

その反面、遊び場ひとつとってみてもそうですが、ご家庭や学校以外の地域社会で子どもや青年が育ち、成長できる場が確実に減少しており、かれらが多様なひとたちとのあいだで承認を得て、自分を見い出していく回路は断たれていく一方です。

また経済界をはじめ、社会の側から教育の主体である子どもや青年にたいして「道徳心」「コミュ力」「高学歴」「グローバル化に適応できる人材」等々、外側から半ば強制的に要請される時代の空気のなかでたえまない競争に年少のうちからさらされ、劣等感を積み重ねている子も確実に存在します。

この過程で、情報は確かにあふれてはいながらも、内発的に自分の生き方や価値観を模索する機会をなかなかつかみにくくなっているのが現代という時代の雰囲気ではないでしょうか。

学びの本質とはなにか ~ゲーテのことばより~

塾は学びの空間ですから、わたしどもは学びの当事者である個別の子ども・青年の様子や状況に目を留めるのと同時に、学力差に関係なく、根本的にいったいどのような学びが必要なのかについて自問を重ねています。

わたしどもにとってそのヒントとなるひとつの指標、重要な示唆となることばを、ある本のなかに見い出すことができるかと思いますので、ここに紹介します。

土居健郎という精神医学者の先生の著作*の冒頭に引用されている、ドイツの文学者ゲーテ(1749-1832)の小説「親和力」にでてくることばです。

Sich mitzuteilen ist Natur ; Mitgeteiletes aufzunehmen, wie es gegeben wird, ist Bildung.

自分のこころを伝えることは自然(Natur)である。伝えられたものを、伝えられたままに受け取ることは教養(Bildung)である。

なんとも教条くさいことばのように聞こえるかもしれませんが、意外なことに、ゲーテはこのことばを作中の十代の少女オッティリエに言わせています。この少女はおとなたちとの三角関係に巻き込まれた末に、最後は摂食障害の状態で衰弱死にいたる結末を迎えます。

土居先生の解説によれば、「彼女にはおとなたちの気持ちがよくわかったのに、おとなたちには彼女の本当の気持ちがわからなかったという点である。」ということになります。

ユリイカでお子さんが成長し、学べること

教師と名の付く以上、学校だろうと塾であろうと、目の前の生徒の気持ちを理解できなくてはなりません。

そして、教養というものがひとにとってなぜ必要なのかといえば、それは自分をはじめ、自分を取り巻き、自分を成り立たせてくれる他者の気持ちをじゅうぶん理解するためなのだと思います。

ひとはともすれば、自分の都合のいいように他者の言い分をねじまげて解釈していないでしょうか。
しかしわたしたちの世界は、自分に都合よく他者をとらえるばかりでうまくいくような単純な世界ではもちろんありません。

これを学びの世界におきかえると、学びはすでに赤ちゃんのときから、自分と自分の外側の他者や自然やモノなどの世界にむけて開かれて存在します。
そうしてそのことを、周りの支えをたよりにしながら自分なりに対象を理解しながら学んでいきます。

その理解するプロセスにおいては決して便利で能率的な方法やマニュアルのようなものがあるわけではなく、ひとりひとりの子どもがそれぞれ個性があるのと同じで、それぞれ独自の個性的で創造的な歩みをたどります。
そのプロセスを見守るのがわたしたちユリイカの役割です。

多様な学びを通して、わたしたちはお互い支え合いながら、学びの本質に「個性的」に向かうことを目指します。

目の前の知識をつかみ、問題がとけるようになる学習が、狭い意味の学力「競争」ではなく、生徒のみなさんの大きな学びにつながるように。
それがユリイカの願いであり、ぶれることのない方針です。

(*「新訂 方法としての面接 臨床家のために」土居健郎著 1977 医学書院)