今日、8月6日、感染者が東京都では5000を越えた。オリンピックのお祭り気分の裏で、こういう事実を知って僕は暗澹となる。外出は、果たして感染するかどうかの、タイトロープの綱渡りだ。

なんとか先生で知られる某ベテラン俳優が、オリンピックがいざ始まればコロナ不安なんて皆忘れちゃうから、と言ったそうだが、ある意味ここまで国民を馬鹿にした言説もないだろう。僕は基本的にこうした意見にはとても違和感を覚える。

気持ちが張りつまるそのいっぽうで日本選手団のメダルラッシュによる祝祭の雰囲気に、まるで脱臼でもしたかのような、「ずれ」の感覚を肌でピリピリ感じる今日この頃である。

 このずれた祝祭の雰囲気はもはや政府や東京都のガバナンスの喪失から生まれるアノミーだ。かつての幕末の退廃的な、「ええじゃないか運動」に類する。お上の言うことは国民に自粛を強く要請しながら、しかしオリンピックはやるという、国民の7割くらいが大会中止を求めながらそれでも強行開催に踏み切った完全に支離滅裂なもの。その矛盾したメッセージがCORONAの第5波を増幅させた。敢えて聞く耳を持たない人びとが街へ繰り出すのだ。それゆえ、選手たちの活躍自体に非はない。これは完全に人災なのだと思う。

僕はこれまでハッキリと生徒や幾人かの保護者の前でオリンピック開催には反対だと明言してきた。それは、市民や国民の70%が開催に不安を感じていたにもかかわらず、全く民主的な議論や合意形成がなされないままに、政府も自治体も、IOCをはじめとする利権ありきのオリンピックを強行開催に踏み切ったことによる。繰り返すようだが、これまで人知れず努力を積み重ねてきた選手には全く非はない。

選手たちには全く非はない。。。しかし、それでもなお、やはりオリンピックはやるべきではなかった。どこがコロナを克服したオリンピックなのか。震災復興をたたえる雰囲気のオリンピックなのか。国民の外出自粛を強いながらオリンピックはやるだなんて、もう、お上の言うことは支離滅裂ではないか。だから、多くの人がすでに政府の言うことに聞く耳をあえて持たず街に繰り出す。。

いったい誰のためのオリンピックなのか。

ここまで開催への疑問噴出が先鋭化された大会は初めてなのではないか。

僕は非国民と、もはや言われそうである。

まあ、それでも全然いいやと思う。

開催に踏み切った以上、ああだこうだ言うな!

たとえばそういう人びとから僕は攻撃を現にたっぷり受けている。

しかし、果たして開催がムチャぶりだったわりに開催が決まったあとであれこれ反論の声を挙げるのはただしくないんだろうか?果たしてそうなんだろうか? それ、日本人お得意の、単なる空気でしょうが?そこに何の合理性があるんでしょう?かりにここまで選手が活躍してなかったら? もしも、国民の命のほうが優先されるべきで大会は中止だと政府や主催者がをかれらの身を張ってメッセージを出していたのなら? 

ついでに言わせてもらう。国内メディアも一部除いて酷いが、海外メディアもたいがいだ。

例えばアメリカの大手、ワシントン・ポスト紙。7月17日の記事にみられるように、その内容は、1964の東京五輪の成功を踏まえ、今回外国人へのおもてなしをかかげた大会は、不成功に終わるだろう、というもの。渡邊隆成くんと英訳したが、所詮は対岸の火事に見ているのである。そこまで言うのなら、IOCや日本政府やホワイトハウス、莫大な五輪利権を握る自国のテレビ局などにコロナ大禍に揺れる日本の大会中止をなぜアピールしなかったのか、というくらいのもんである。ホテルのエレベーターを、日本人用と外国人用に分けている例を、レイシズムとでも言いたげな、それゆえにおもてなしの対極に位置付けたい匂いがプンプンする記事。

いま、それ言うか?感染リスクのある、日本の「おもてなし」を果たしてあなた方は受けたいの?と、こちらも応酬して言いたくなるような、いささか皮肉の利きすぎる記事であった。https://www.washingtonpost.com/sports/olympics/2021/07/17/olympics-tokyo-legacy/

閑話休題。

僕は、こういった以上、自分の言論に責任を持つ。もちろん別意見はそれ自体聞く耳を持っている。しかし、その異議に対し、不器用だろうが何だろうが批判はさせてもらう。