令和2年度も3月末になり、日本だけでなく世界中でまさかこれだけ新型コロナウイルスが蔓延するとは、と多くの人が思ったことだろう。私もその一人である。公表される感染者の数が日々増えるごとにキリキリと胃が痛み、私のなかの不安係数は増す。

この感覚は自分にとって今から9年前の東日本大震災以来のものである。津波のあまりの被害の大きさに頭が真っ白になると同時に、原発事故の規模の大きさと、収束の見通しの立たないわからなさに、とてもじゃないが平静でいられずキリキリとした当時の感覚を生々しく思い出す。 

さて、というわけで、私の中でこの不安の感覚はわりに性格的に馴れ親しんでいて、いろいろと消毒剤を買ったり、あれやこれやと買い込む浅はかな行動は多くの部分、この身体的な自分の不安の感覚に由来していることは間違いないだろうと思う。

しかし、見通しが立たぬから不安なのだ、まあ一歩引いてみて落ち着けという振り子の原理とでもいうか、そうしたバランサーもいつしか私は年の功なのか持つようになった。これは言い切るが結局、安心したいからだ。もっといえば安心こそ生きるうえでの必要な糧だ。だが、不安をいわば捏造し、ごまかして安心を得たいわけじゃない。自分がそう思い込みたいからといって、現実をゆがめて安心を得るべく、周りの人間にワーワーいう趣味はない。

ちなみにデマの心理学というものがあって、すでに1950年代に言及されている。それを「オルポートとポストマンの法則」というが、世に出るうわさやデマの量は、ある事象の重要性×あいまいさによるらしい。つまり、社会的重要度が増す出来事の真実があいまいであればあるほど、根拠のないデマが増すということだけれども、あらためてこれは常識というか、あたりまえのことだ。

もっともらしいデマが横行するのは、まさに今のようなときで、世にあふれる情報の何が正しく、間違っているのか不分明で、曖昧なときこそである。東京の感染者が急にこのところ増え始めたというのは、それはオリンピックの延期をIOCの流れを読んで都知事が表明した途端のことであって、もともとそれなりに一定数の感染者がいただろうに、という言説は果たして真か偽かわからない。3月末の2週間ほど前から、日本はヨーロッパほど深刻な状況にならないようだ、という思い込みでコロナに油断して平素の行動をした人が増えた。その結果として東京での現在の感染者の増加があると論じる人もいるわけだ。実に曖昧である。それに関して、人によっては怒りやますますの不安を覚えるだろうし、無視する人もいるようにみえる。

私は個人的にはこういうときに人々がどういう行動を取るのかということに興味を覚えるし、わからなさはそのまま保留して、一歩引く姿勢を取りたい。世の中の情報から一歩ひいて自分で考え、判断するのが、正直なところ私にとっての安心につながっている。「わからない」というのはじつは耐え難いことでもないようなのだ。

不安と安心が分裂していようがしていまいが、自然に心のなかにその二つがあるのならば、双方の同居を許す態度でいたい。見通しがさっぱり利かないから不安はある。この不安は自分の胃も痛むので解消したい。だけど事象の曖昧さが一方で冷静になれる余地を残している。もっともらしい情報やデマに釣られるのは嫌だというのは、自分で考えて落ち着き、安心したいからだ。

皆様、どうか心の中が不安一色に染まらないことを、そしてわからなさの経過をみることが、それぞれの安心につながるよう願っています。