第4回TALKROOMを2月8日(土)14時~15時30分に行います。新たな試みでまずは参加者のかたが親しみやすい、しりとりトークゲームをします。
そして本論のテーマは、死後の世界はあるのかについて。提唱者は小5のNさんです。
多数決により決まりました。10代の人たちがこうしたテーマを話し合いたいというのも物凄いことです。次回TALKROOMでは、4回目にして私たちにとっての究極の問い、人はどこから来てどこへ行くのかにかかわるテーマになってしまいました!ひとの生死を包む世界の構造はじつはどういうものなのか。われわれがそれを認識できるものなのか否か。
例えば死ぬことについて。個人的には私も幼少のころからひとは死んだらどうなるのか、ずっと考えてきたことでした。5、6歳の頃だったかと思います。自分が死んだらつぎはウサギになって、ウサギの生が終わったらキリンになりその次はライオンでそのつぎはというふうに、自分の知るあらゆる動物を思い浮かべては果てがないことにとても恐怖を覚えた記憶があります。かといって、死んだらそれで終わり、死後の世界などはないと思うのもサッパリしていていいのでしょうが、それも僕には怖いことでした。自分の場合、死ということに対しては恐怖が根底にあったのだと思います。今でもその感情は決して消えた訳ではなく、自分のどこかに属している気がします。
さて、世界に展開されているさまざまな宗教では、神や仏、つまり人間を越えた超越者がいることを教えてくれています。そして日本では「八百万の神(やおよろずのかみ)」といって、あらゆる自然界のものや人に霊魂が宿るという信仰が続いています。私たちの多くは正月に初詣で寺社に参拝し、葬式は仏教式で寺に行き、年末のクリスマスにはキリストの誕生を祝うという、とくに一神教の欧米人からみたら不可解でいいかげんなように映る信仰への態度をとっていますが、だからといって信仰心がないわけではない。わたしたちのなかには素朴な感情で、この世には人間を超える超越的な存在がいて、自分たちを見守ってくれていると思っている人も多いことと推測しています。
誰でもやがて自分の生に終わりが来ることを知っています。そして、死後に来世があるのかどうかについて、「ある」と信じて生きる人たちが大勢います。
一方で、「ない」と思う人たちも大勢います。この考えに大きな影響を与えているのは17世紀以降に台頭してきた科学でしょう。科学では神やその他の超越的存在があるかどうかを不問にしています。例えば交通事故でひとが死んだとき、死因は脳挫傷と臓器の著しい損傷でというように科学では説明します。ここでの説明はHow「どのように」に関するものですが、身近な人であればあるほどその人を失ったときに、わたしたちはWhy「なぜ亡くなってしまったのか」に関して答えを求めるものです。しかし、科学はその問いに応えるものではありません。
ところで科学がこの先もっと進歩すればこの世のすべてを説明できるだろうと考えている人たちがいます。あるいは科学で説明できることが全てであり、それ以外の範囲のことについては「ない」と仮定したほうが合理的な判断なのであって、ゆえに来世はないし、神の存在もないという立場を取る人たちもいます。僕は果たしてそうかなと思うのですが、それはどうしてかというと、科学的な方法論がhowの説明にとどまり、whyに関して意味を求める人間の経験とは一線を画す限界があると思うからです。かつて僕は20代の頃に、科学で説明できることがすべてという人に出会ったことがありますが、科学がその人の一種の宗教や信仰になっているのではないかと思ったことがありました。
howの科学で扱う範囲とwhyの人間的経験を端緒とする問いや考えはそもそもカテゴリーが違うのではないかと僕は思ってきました。
ついでですが20世紀のフランスの哲学者、アンリ・ベルグソンの講演集でこうした話があります。私個人は俗に言われるオカルトに関するものは、単に人の好奇をひくものが多いため忌避していますが、以下、こういう話です。
ベルグソンがある集まり(日常的なサロン)で、夫が戦場に出征したという女性の話を聞きました。その人は夢で自分の夫が塹壕から出たところを敵の兵士に銃で撃たれて亡くなった場面をみて、目が覚めてからまさか、と思ったところが、あとから同僚の兵士が自分のところにやってきて自分の夫が亡くなったことを伝えたそうです。夫人が夫の最期をきくと、自分が夢で見た通りのかたちで夫が亡くなったこと、その日時は夢を見ていたまさにその時であったこと、そうした不思議な体験をした夫人の話をベルグソンは聞いていました。
すると、サロンのメンバーである当代随一のフランスを代表する一人の医師がこういったそうです。「残念ながらその婦人が体験したことは単なる偶然だろう。夢でみたことと現実の夫の死の場面がいかに符号していたとしても、皆さん、夢では現実の出来事と合致しないことも多いのでして、果たして夢と現実がぴったり合っていたか、それとも外れていたかを比較するならば、確率的に後者のほうが多いにちがいない、だからこれは偶然なのです。」その医師に対してある女性がこういいました。それをベルグソンは記述しています。
「先生、あなたが高名な立派な医師であることを私は知っています。いま先生おっしゃられたことはどういうわけか私にはうまく説明できませんが、少し違うのではないかと思います。」
ベルグソンはそのやり取りを聞いていて、医師よりも女性のほうが正しいと述べています。それはなぜかというと、医師はその未亡人の見た夢を果たして正しいか間違ってたかという問題にすりかえ、置き換えてしまっている。そうすると偶然か必然か、という問題になるのだけど、それこそは誤りなのであって、未亡人は自分の身に起きた経験の具体的真実そのものを語っている。個人の経験したことが、偶然かそうでないかの抽象的問題に置き換えられることこそが間違いなのだ、という趣旨のことを述べています。(アンリ・ベルグソン著 「『生者の幻と心霊研究』精神のエネルギー所収 第三文明社 1992)
カテゴリーエラーの一例です。
もうこれぐらいにしておきます。次回のTALKROOMの行き詰まったときの小ネタとして利用していただけると幸いです。
シャイな人大歓迎、多くの方のご参加をお待ちしています!
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