季節が巡り、東京は春を迎えようとしている。毎年この時期になると、ことばにならないものを求め、それをことばにしたい欲求にかられる。周期的にどうしてか春先にはそんな気分になる。ありきたりの言葉や紋切り型のコンセプトからできるだけ身を引き剥がして、世の中の流行でもない統計でもない、ましてやAIのアルゴリズムや、世に蔓延する表層的な言説やテキストなど、ほんとうに真っ平ご免で、頼るのは自分の感性というふうに過ごしてみたい。
それには沈潜することも必要だ。なにか沈潜できるきっかけはないか、「そうだ、旅にでよう。」JR東海のCMみたい。
河合隼雄さん(1928-2007)が亡くなって以来、寡聞にして久しいが、スイスの心理学者C.Gユング(1875-1961)というひとがかつていた。かれによると、人間の意識には構造的なレイヤー(層)があり、下部にいけばいくほど個人の無意識すらも超えて僕たちの人間としての集合的無意識(collective unconciousness)に突き当たるという。
こころにも古層があってひとの個人の一生をはるかに超える人類誕生以来(ホモ・サピエンスとしては40万年前~25万年前、ヒト属としては200万年前、あるいは700万年前?と唱える学説もある。)の歴史・文化・自然のイメージ(祖型)が実在するのらしい。そのイメージは乱暴な物言いになるかもしれないが、じつはキリストの三位一体でも仏像でもインドの曼陀羅(マンダラ)でも自然の森でもいい。個人の意識にのぼる古層の象徴として、みずからの文化的に親しいものとしてそれらが外的に夢や表現として顕在化する。同時にそれらが深みを感じられるものであればあるほど僕たちの無意識の古層から、個人を包み、ひとの生き方を基礎づける。そのことを詳細にユングは説いてみせた。
この辺の記述であやしいと思うひとは多いだろう。しかし、たとえば神話というのはそういうものではないだろうか。およそ世界中に存在する神話にはどういうふうにして自分を取り巻く世界ができたのか、どのように生きることがふさわしく、自分の生きる意味はどこにあるのかの説明がふくまれているものだろうと思う。深い神話であればあるほど、ひとの世界観や価値観を包摂し、そこに僕たち個人のうえに何らかの肯定的な生の意味を与えるものである。
翻って、分析だけやって世の中や自分のことを細かい要素に解体しても、それだけでは生を肯定することはできない。たとえばどうして自分が生まれてやがて死ぬのかを科学では納得のいく説明をすることは難しい。遺伝子やDNAだとかエントロピーの増大とか言われてみても「どうして?」のwhyに直結する根本の問いに科学は手当てができない。あくまで「どのように、どうやって」の、howの問いに科学は答えるのみだ。本来、それに満足できないのがわれわれ人間であると僕は思う。(しかし科学者でも、福岡伸一さんなどは生物と世界の包摂ということに深くコミットしていることを書いておきます。)
さて、古代人ならばなんの疑いもなく神話的な世界観を、「ハレ」と「ケ」のうちにしぜんに受け入れることができていただろうと想像する一方、しかし僕などにはたとえばギリシャ神話や古事記などを読んでもじつはちょっと難しいところがある。こころなしか現代文明の、科学の還元主義への信仰に毒されているので。
現代の神話があるとすれば、なんだろう。AI神話?
でも、子どもを見ているとよくわかるが、ものごとの意味を解体するのではなく、意味をつつみこむような深い、不思議な物語が大好きだし、むしろそれを求めている熱気をモロに感じるのである。
子どもは神話と親和性が高いと思うのである。
それがだんだんと思春期、青年期、年を経ていくうちに自分の置かれている環境や現実のなかに埋めこまれてしまう傾向があるように思われる。もちろんこの自分も。それはどうしてだろう。もちろん置かれている環境との問題がより切実にある。
しかし一皮二皮くらい剥けば、ほんとうにあったかの事実かどうかとは別に、自分の生きている意味を、他者や自然や社会とともに自分ひとりが納得するわけではない、社会集団を構成する人々をも納得させる「神話」の世界を確かに僕たちも求めているのではないか。
どうだろう。自問自答だが、変化のスピードに右往左往するわれわれおとなこそ、包括的で、しかも表層にとらわれない深い物語を求めているのではないか、そんなことを思う。
たとえば僕が毎年の初詣、わりと本気でほんとうにあるかどうかわからない神とは無関係に手を合わすことを考えると。。
深く掘ろう。僕たちの今置かれている生と環境に対する現実の抗いは、生死との接点において、やがて祈りという行為につながるものがあるかもしれない。
前置きが長くなった。さて、そんなわけで今年の春、妻子に頼み、顰蹙(ひんしゅく)ものだが、かれら二人を巻き込んで2年連続で長野の諏訪地方に行った。
ここにはかなり興味をひくものがある。
巨石、縄文以来の信仰、フォッサマグナと中央構造線が交差する諏訪湖、そしてそれを取り巻くように四方に鎮座する全国的にも珍しい、四社からなる諏訪大社。
3月末、新宿から特急あずさで2時間あまり、茅野駅で降りた。
当地にはかねてから見てみたいと思っていた小袋石(こぶくろいし・おふくろいし)がある。茅野駅から南西に約5キロメートル、守屋山方面の麓近くの森にある巨石(メガリス)である。諏訪七石のひとつで縄文時代から人々に崇められてきた石だろうという。
駅からは少し遠いのでタクシーで向かうことにした。拝察するに齢70前後の地元のタクシーの運転手さんに行き先を伝えたのだが、「はて、どこだっけな」という。
ご当人、その石を見たことがないらしい。ただ、その昔一度だけ僕と同じような客を乗せたことがあるのをふと思い出したらしく、ほどなく「ああ、そんなところもあったかもなー」とつぶやく。
地元のひともよくわからないところなのか、と思って僕は気分が高揚したのだが、妻はそれを聞いてあるいは少し不安に思ったかもしれなかった。
道中いくつか小さな祠(ほこら)があって運転手さんに訊けば、諏訪地方ではどんな小さな祠でも、かならず四隅に先端を尖らせた御柱(おんばしら)を立てるのだそうで、6年ごと(7年に一度)にそれを取り替える。神社の鳥居と同じでその内部は聖なる「結界」でも、四本の御柱は古い縄文以来の神への捧げの意味で、諏訪大社四社はもみの木と決まっている。が、このあたりの祠の御柱はじつは何の木でもいいらしい。「しかし、とにかくちゃんと立てるのだ」ということを聞いた。なるほど、と僕は直観した。そのことばの強さに、諏訪人としての意気があった。
さて、そうこうするうちに小袋石の近くに着き、そこからは道らしい道がないから、山の斜面のけもの道をあがってゆく。蛇がいそうだと怖がるもうすぐ6歳の息子を抱っこしてずんずんとあがってゆく。
ほどなくして、「それ」があった。自分の想像以上にデカい!優に先端部まで8メートル以上はあるのではないかと思われる石だ。
間近に寄って見ると思わず一礼してしまう自分がいて、古代の儀礼的にどうなのかわからない、おそらく失礼にあたるのかもしれないが、気付けばペタペタとその巨石に手でさわってみる自分がいた。その感触たるや、実にゴツゴツとしており、穴もあちこちに空いている。たぶん火山岩の一種だ。苔で湿っていて、ほうぼうに松の根がわずかな裂け目から生えている。僕はからだの反応と同時にこころを動かされた。
しかし、どうして巨石がぽつんと一つだけここにおかれているのだろう。まさか、これだけの巨石を人為的にここに運んだとは思えない。だとすると火山活動によるものだろうか。何千年、何万年単位か知らないが、ともかく相当古くからここにあったものではないだろうか。
じつはこの巨石の下には、中央構造線といって、日本列島がユーラシア大陸にまだくっついていた頃、いまから数千万年前にできた断層があり、幅70、80cmくらいはあろうか、画像でも確認できるが、裂け目がある。そして裂け目の下には水が少し滲み出して水流となっている。春先の雪解け水とはちがい、透明で、耳を澄ませてみたが無音である。石はその中央構造線の断裂の上に鎮座する。
もともとヒトが誕生する前から石がこの場所にあったとすると、それ以後に誕生した人びとはどのようにこの巨石に接したのだろうか。そう思って、しばらくのあいだ、こちらも無言となる。
一枚目の画像の左に写っているが、近くには古い小さな祠があり、先述したように4本の御柱が立てられているので、この巨石そのものは古代の人々から続く信仰の対象であったように思う。
わずか20分くらいの滞在ではなかったかと思うが、内的にはずいぶんと長い時間をここで過ごした。さしたる会話もなく、しかしひとつの石をめぐる長い歴史を、こちらの凡庸ながら、ありったけの感受性で迎えることになった。
つぎに訪れたのが諏訪大社上社の前宮(かみしゃ・まえみや)である。地図でみると、小袋石のあるところからほぼ東に1キロメートルのところに位置する。なだらかな丘陵のごく手前にあり、もともとここは今よりも二倍広かった諏訪湖のほとりだったと聞く。現在の諏訪大社四社のなかで唯一本殿もあって、(ほかの三社には本殿がない。)いちばん古い神社なのだという。とても素朴な神社で、昼下がりの陽光を浴びながら、のびやかな気分で参拝した。
ここの御神体(ごしんたい)は公式には「建御名方神(たけみなかたのかみ)」という神だ。しかし古事記(712)には載っているが、その後の日本書紀(720)にも、 「建御名方神 」御出身の出雲(島根県・出雲)の「出雲国風土記」(733)にも記されていない、いってみればまことに不可解な御神体である。この神様は、ちなみに初代征夷大将軍、坂上田村麻呂や、源頼朝、武田信玄、徳川家康など、そうそうたる武将に祀られてきた「軍神」である。しかし国内初の歴史書である「古事記」(712)によれば、 建御名方神 は大国主神(おおくにぬしのかみ)の次男で、「中つ国」の国譲りの際に建雷之神(たけみかづちのかみ)との力比べであっさりと敗北し、諏訪の地に逃亡してきたという。
逃亡してきたとは公式に言われていないが、そもそも古事記の記述では屈強な軍神のイメージとはほど遠い神らしいのである。
それがどうして全国に5000社以上もある「諏訪大社」(ちなみに荒川区西日暮里にも同じ、諏方神社(すわじんじゃ)がある。)の神となりえたのか。そこには人為的な操作がどうもあるようで、これもひとの政治的な思惑が絡み合う歴史だろうと思う。
じつは今回の旅のきっかけとなったのが、中沢新一、坂本龍一著「縄文聖地巡礼」(イーストプレス 2023)、戸矢学著「諏訪の神」(河出書房新社 2014)という2冊の本だったのだが、この2冊に大変感銘を受けた。とくに後者の戸矢さんの著した「諏訪の神」には、こちらの無知ゆえと同時に、かれの感性の鋭さに大きな衝撃を受けた。僕は、ああ、歴史ってそう読むのかとため息をついた次第で、ちょっと横道に逸れる。
(※ そもそも、昔から嫌いな考え方なのだが、いわゆる一部の考古学や歴史学の害について。「昔の人はそう考えていたらしいが、ほんとうはちがう」という考えだ。
この考えに反発する感性は自分の10代後半からあり、「いや、昔の人たちがそう考えていたこと(歴史)は、現代の僕たちの立ち位置を何も変えずに考えたって仕方ないだろう」と僕は思っていた。たとえば「聖徳太子はほんとうはいなかったらしい」という説である。そのようなことをいう人には「太子がいてもいなくてもどうせ現在の君の生活には無関係でしょう?どこから仕入れたかわからないけど、つまりは自分の知識をひけらかしたいだけなのでは?」という、少し冷たいことを思う自分がいた。
太子がこれまでの日本の信仰と外国からもたらされた仏教との狭間で何を葛藤し、仏教寺である法隆寺を建てることを決断したか、廃仏派である物部守屋を587年12、3歳のときに蘇我氏に同行して斃して(たおして)のち、どういうわけで大阪の四天王寺という寺を建てたかということを少しでも考えてみれば、そこにはかれの身になって想像することでのいろんな思いが巡る。決断の難しさやためらいや覚悟を思うたびに、ああ、とつぶやきが漏れる。
あくまで史実をもとに、そこから現代の僕たちの想像力を以って浮上する「過去」は、過去というよりむしろ現在である。その場合、僕たちが太子の身になってあれこれと考えているゆえに自分のこころはさまざまな方向にゆらぐだろう。厳密な史料は必要だ。しかし、それから何を現在に浮かび上がらせるか、それは僕たちのありったけの思考や想像力を以ってしてである。
そういう、歴史に接する作法というか過去の歴史を迎える態度は、僕は小林秀雄(1904-1983)から学んだ。
つまり、「ほんとうはこうであった」タイプの言明の多くは、僕たちの生きる難しさや共感とは無関係で表層的だ。それでいて過去の歴史を乱暴に引き裂くものであり、そんなことをしても意味はないだろうと思う類のものなのである。そうした行為は所詮、歴史を外側から眺めてみるだけであって、当時に生きていた人間がいきいきとよみがえるわけでもないし、自分のこころがあちこちに動かされ、さりとて感動するわけでもない。
ところがうまい歴史家は、過去の歴史上の人物を現代にきちんと生身の人物として描き、蘇らせ、こちらの心を動かす。
たとえば「諏訪の神」を著した戸矢学氏は、僕からすれば第一級の歴史家の典型である。現代まで連なる歪んだ偏見のレイヤー(層)を史実の矛盾と照合しながら一枚一枚ひきはがして、気がつけば古層の世界にいざなうマジシャンみたいな人だ。「ほんとうはこうであった」という言明のなかでも、現代の「実証主義」の目で古代をジャッジする表層的な方法論とは真逆で、過去を上手にひもといてみせる。「古代のことは古代に聞く」という、歴史に向き合う態度を持っている。それゆえ、「昔の人はおそらくこう考えていた」の世界を、僕の眼前にひろげて見せてくれる。興味のある方はぜひエキサイティングな「諏訪の神」を読んでみてほしい。長すぎる括弧になった。)
さて、ここからは僕個人の知りえた「耳学問」としてずいぶん長い文章になるかもしれない。しかし、一応僕の驚きや嘆息、それから思考のフィルターを通すことにしたい。そうでないものは書かない。そのうえでゆっくり歩みを進めたい。
戸矢氏によると諏訪地方の信仰はそれまでの歴史が蓄積した、いわば重層構造で成り立っており、しかも古代の信仰が露頭しているという。
僕なりの読みでまとめると、諏訪には縄文の有史以前から人口も多く、人びとには自然物(山・森・石・火(太陽))に対する信仰、そのなかでも石にたいする特別な信仰(いわくら:磐座)があった。
それは、戸矢氏の著作のあとで明かされるが、中央構造線とフォッサマグナの西端の2つの断層が交わる、この土地の地理的な特殊性にあった。
その後、古事記成立(712)当時の朝廷が全国の統治支配をすすめる過程で、諏訪は人口も多かったゆえ、政権としては無視できない土地となる。政権は祭祀も形式的に統一し管理する必要があり、出雲・吉備・紀伊を服属させてきた。しかし武力も備わり、有史以前の古い信仰の一大中心地である諏訪はそうはいかない。
そこでどうしたか。「諏訪は攻めない。そのかわり政権の望む信仰の形式的儀礼に合わせるのと同時に地域の古い信仰を認めよう。そのかわりに地域の権力者は一歩も諏訪から出るな」という取り交わしがあったのではないかと戸矢氏はいう。歴史の教科書にも載る藤原不比等(659-720)の計略だったというが、その誓約で新たに置かれた神が、先述した「建御名方神(たけみなかたのかみ)」である。
普通、古事記(712)に記載されている神なのであればその後の日本書紀(720)にも出雲国風土記(733)に記載されるのが通例だそうなのだが、この神様に関してはそうではない。戸矢氏は、おそらく「 建御名方神 」は733年以降に設けられ、古事記にあとから付け加えられた「新しい神」だろうと述べている。
なぜあとから付け加えられたかといえば、政権側に脅威であった諏訪をまがりなりにも統治するためだ。諏訪大社4社のうちの2社である、下社(しもしゃ)「春宮(はるみや)」と「秋宮(あきみや)」は、じつにその頃に朝廷側の意向で創建された。そしてそれ以前から諏訪にあった上社(かみしゃ)の前宮(まえみや)と本宮(ほんみや)はご神体が縄文以来の「ミシャクジ神」と、「洩矢神(モリヤ神)」であったのが、少なくとも「出雲国風土記」が編まれた733年以降、公式的に「 建御名方神 」 という、いわば「架空の神」を御神体とするに至った。いわゆる「軍神」として。
シンプルに書くとこうだ。朝廷側は諏訪には「 建御名方神 」を強い軍神だから新たに拝みなさい、その代わり諏訪の古代からの信仰をみとめると言った。その一方で諏訪を支配できなかったうらみで、「情けない神」としての「建御名方神」をあとから古事記に加筆して、溜飲を下げるというか、そういう操作をした。
諏訪にはいわゆる自治をみとめつつ、一方で封鎖したので古事記の記述など知るものか、諏訪はどうせ古事記を知るまいし読む機会もあるまい。そんな中央の思惑がここにある。それを感じ取って、ああ、いやだなと僕は思う。なんだか卑怯な感じがして。
ちなみに、「縄文聖地巡礼」(2006)の坂本龍一氏などはこのように言う。(p.71-2)
坂本 諏訪もそうだけど、もともと聖地だったところへ新しい権力が入ってくるときに、現地のローカルな信仰を利用して統治していくことが多い。
なるほどそうか、権力側にとっては統治の知恵ということもある。
しかしもちろん、寛容と妥協はちがうので、その辺の線引きがあいまいだと結局のところ、支配・被支配者双方にとっても感情のしこりは残るのだ。したがって朝廷は古事記を改竄(かいざん)し、一方諏訪は中央の意向に簡単に屈しない「反権力的な土地」(坂本氏)ということになる。それゆえに、諏訪独自の信仰のスタイルが現代まで残ったという見方もできる。
(※古事記の伝承について。古事記(712)はそれが編まれたあと、民衆のあいだでひろく読み継がれてきたのかというと、そうではなかった。原則非公開であり、したがって古事記とは関係のない勇ましい軍神としての「建御名方神」の流布がさきに広まった。古事記が現在のかたちで一般に読めるようになったのは、小林秀雄が指摘しているが、じつに江戸中期の本居宣長(1730-1801)が30年におよぶ研究により「古事記伝」を著してのちである。いいかえれば古事記から本居宣長の生きた時代までおよそ1000年のスパンがあるが、その年月のあいだに「古事記」は皇室の一家相伝でもなく、すでに誰にも読めない書物になっていたということである。坂上田村麻呂から徳川家康にいたるまでの名だたる武将が「建御名方神」 を崇めてきたのは、かれらが古事記を読んでこなかったからであるし、その存在を知らなかった可能性が十分にある。 )
さて、諏訪の特殊性はそればかりではない。時代が前後するが、8世紀前半の「建御名方神」問題よりもさかのぼることおよそ150年前、587年に物部守屋(もののべのもりや)の乱があった。これもまた諏訪の信仰のあり方に深くかかわる出来事なので記しておくこととしたい。
当時の朝廷では、物部氏と蘇我氏という二大有力豪族が、かたや排仏派(物部)、もう一方が崇仏派(蘇我)として勢力争いをしていた。538年新たに朝鮮経由で入ってきた仏教に対して排仏の姿勢を貫いたのは物部守屋である。もともと物部氏は軍事と祭祀の最有力氏族だったので、守屋は戦術には長けており、しかも全国の神社を管理する大連(おおむらじ)の職に就いている。そこに対抗したのが蘇我馬子で、かれは仏教導入と普及に積極的で、仏教を政治利用したとされる。自分の寺も建立し(飛鳥寺)、子弟には僧として中国に留学させたりもした。
日本書紀(720)によると、馬子がひらいた法会(ほうえ)のあと多くの災厄があり、天皇も病に倒れ、人々がたくさん死んだことがあった。守屋はこれを馬子の法会のせいだとし、仏塔を倒し、仏像や寺院を焼き、僧や尼を捕えて罰を加えるに至ったという。そこでその暴挙に黙っていられなかった馬子が当時10代の厩戸皇子(のちの聖徳太子)らを引き連れて起こした乱が、いわゆる物部守屋の乱(587)である。守屋は戦いに秀でていたから防戦したものの一本の矢によって倒れた。史実にはなく、戸矢さんの空想によると、「洩れた一本の矢」が守屋の急所を貫いた。物部氏のトップである守屋を倒した蘇我馬子はその後歴史の表舞台で活躍する。いっぽう物部氏一族は急速に権勢をうしない、その一派は奈良の飛鳥から諏訪・飯田など遠く信州方面に逃げのびるのである。
今回の旅で訪れた諏訪神社上社本宮(ほんみや)の古くからのご神体のひとつは奥に位置する「守屋山」である。(神社本庁の公式ではない。)これを管理してきた神長官のひとつが「守矢家」であり、守矢家は代々「洩矢神(モレヤ神)」の信仰を守ってきたといわれる。 「洩れた一本の矢」 に当たった「洩矢」神とは、戸矢氏によると、おそらく先述した物部守屋である。守屋はいわば「怨霊神」としてこの地に根づいた。ちなみに諏訪と同じ長野県の有名な善光寺の敷地の元は水内大社(みのちたいしゃ)だった。この神社は善光寺と別のところにいまでも現存しているが、つまり神道の敷地を仏教寺が奪い取ったかたちになるが、善光寺本堂108本の柱の中心「大黒柱」(唯一、中心が「角柱」。ほかの107本は円柱。)の下には物部守屋の「首」があると現在にまで伝えられている。
ここでのポイントは、斃れた物部守屋の一件が当時(587)の政権や社会にとって、どのような受け止められていたかということである。のちの日本書紀(720)によれば、守屋は「天皇継承にさいしての身勝手なクーデターを行った『逆賊』」である。しかしかれが国家にたいする反逆者なのであれば、当時の世にあってもべつに神として祀る必要はない。ただの罪人だからだ。
ちなみに戸矢氏の調査によれば、全国に物部守屋を祀る神社は諏訪を除いて九社あり、福島(三社)、山梨(一社)、長野(一社)、岐阜(一社)、滋賀(一社)、奈良(一社)、愛媛(一社)であり、しかも興味深いことに、ご神体とされる物部守屋の霊験あらかたな功徳(くどく:よいこと)が特に記されているわけでもない。守屋自体、中央の政治での官職以外、特筆すべきかれの個人的な尊敬すべき生き方とか、あるわけでもない。とすれば、どういうことになるのだろうか。鎮魂である。当時のヤマト政権にとっての「逆賊」や「国賊」でもなかった守屋は「冤罪」(えんざい:犯してもいない罪に問われる)だということになる。それゆえ、たとえば菅原道真や平将門のように、「怨霊神(おんりょうしん)という位置づけが最もふさわしい次第となるのである。
そのひとつの証拠に、聖徳太子が建立したといわれる大阪の四天王寺がある。もちろんここは寺だが、大鳥居がある。仏教寺なのに鳥居があるわけはこの寺が日本人特有の神仏習合とは関係なく、もともと守屋の鎮魂のために建てられ、鳥居は怨霊封じの結界としてあるのだということになる。
(「怨霊」。この言葉を発すればやはり半ば馬鹿馬鹿しい気がするのであって、現代に怨霊はもはやいないだろう。もしもあるとしたらきわめて特殊な個人的な表現のうちにとどまっているものと僕は見る。怨霊はたんなる偏見として片付けられており、昔のように、怨霊それゆえに強力な守護神としてひとびとに広く共有されたcommonsとしての社会的装置には至らない。
だが、感覚だけは残っている。世が令和になろうと、たとえば子どもにはその感覚がある。自分を超えた畏れや聖なるものへの感覚につながるものとして。
あるものへの感覚があるからといってその対象物がはたして実在するのかどうかは昔からの哲学的議論だった。つきつめれば神の存在や自分はどこから来てどこへ行くのかについて、感覚はあるのだが、それが実在するかどうか。
そうすると怨霊も同様である。世の中を効率的に捉えるならばそんなものはないということになり、こころはかたちを求め、かたちはこころに訴求する、というふうに言っても何等の議論のピリオドになるものでもない。
だが、怨霊と同列に、たとえば神の実在について、だれが一体、神を語りえるのか、自分たちの一生を超えた世界の記述をなしえるのか、その権利者についてだれが該当するのかといえば、それは現代の科学においてすら「永遠の留保」ではないだろうか。
人間はモンキービジネス、つまりは自分の日々の損得にかかわる生活にとらわれて、「ひとが死ぬと炭素あるいはタンパク質の物質に還元され、それ以上の意味は持たない」と、こうした結論にいたるのかもしれない。ここにコミットできれば、僕たちの思考はかなり省かれるはずである。もちろん政治体制がどうであるかにかかわらず、それ以前に、生活デザインとしてはずいぶんすっきりしていていい。現にそうした立場がいいという人もいることだろう。また、それはそれとして現代のメインストリームをなすひとつの「神話」なのだろうと思う。だが、それもほんとうに正しいかどうかは「永遠の留保」になるのではないか。)
またしても横道に逸れた。僕はだから諏訪に戻ろう。
つまり洩矢神(もれやかみ)は物部守屋そのものであり、イコールのちの建御名方神である。
建御名方神の背後には物部守屋の存在があって、ずいぶんと僕などからすると無茶ぶりとも思われるエッジで、かの建御名方神は諏訪地域にその後根付いてきた。ひとびとの祈りや信仰は建御名方神に集められ、戸矢氏の指摘でいえば、今から約1290年前のことであるが、以来、「建き(たけき)御名の方」と、「一種の尊称・代名詞で人々の口に上るよう」になる。(ちなみに、戸矢氏によると現在では「明神さま」と呼ぶ。)
1290年も経ってしまえば、ヤマトのもの、出雲のもの、諏訪のもの、すなわち単一でない多様な存在がミックスされて独自の形で残るのだろうか。奈良時代以来の神仏習合や本地垂迹説は当時の政権の支配上の都合の匂いがプンプンするので嫌だが、それに巻き込まれていないのが諏訪である。
さて、さらに書き進めてもよいだろうか。ここにもっと古層からの諏訪のもの、つまり「ミシャクジ神」が重なるわけなのであり、だからこそ諏訪は複雑で僕の興味をひくのだ。
後世の信仰の過程がどのような歩みをたどったのかも興味深いが、いちばん古層にある存在も知りたい。そこに「ミシャクジ神」が関わっている。
ミシャクジとは、中部地方を中心に現在2300ヶ所以上で祀られている縄文以来の神である。神社本庁に登録されているのは24社で、表記は統一されていないらしい。御産子命、御射宮司、御社宮司、佐軍神、佐口神、左口神、尺地神、社口神、美佐久知神等々、さまざまである。(関係があるかわからないが、東京にも石神井(しゃくじい)がある。)このように表記がバラバラなのは漢字表記以前の相当に古い神だからそうで、ミシャクジという名は、その昔中国から漢字とともに輸入された二種の音読み(呉音・漢音)の影響を受けないヤマト言葉だろうと戸矢氏はいう。
ここは前宮から本宮に行くあいだにたまたま通りがかったのだが、こちらを強くひきつけるオーラがあった。
その語源について、民俗学の大家柳田國男や中沢新一氏などの諸説があり、統一的見解に至っていないようだが、ここでも戸矢説は思わずこちらも唸るものなので紹介しよう。
ミシャクジの「み」は尊称、問題はシャクジだ。シャクは「さく」=割く、裂く、チは「地」。あるいはシャ(割、裂く)+クチ(口)。
つまりミシャクジ神とは「地を割る、裂けた口」がその本義なのではないかという。
中央構造線とフォッサマグナの2つの大断層が諏訪湖で交わることとミシャクジ神はここでつながるわけだ。
ミシャクジ神は地震の神で、それも相当な怒りの神だ。人々は当地でかつて起きたであろう大災害が二度とくりかえされないよう祈り、その舞台の中心の諏訪湖を封じ込めるように諏訪大社を四方に、湖に背を向けるかたちで建てて神を祀った。(4社とも拝殿は諏訪湖にはそっぽを向いている。だから諏訪湖そのものが御神体なのではない。)
ミシャクジ神にかかわる神社の筆頭は上社の前宮であり、諏訪大社4社のなかで唯一ここだけ本殿がある。その本殿にはミシャクジ石が祀られているといわれ、毎年4月15日には御頭祭(おんとうさい)という、鹿の頭が神前に捧げられる儀式が今でもある。たまたま訪れることができた守矢家史料館でそのいけにえの剥製を目にしたが、その生々しさはかなり省かれていて、さして残酷でも野蛮でもない、なんと言えばいいか、むしろ命の敬虔さを一挙に肌で感じ取れる展示だった。
思えば我々の生活は古くから狩猟採集がメインで、動物を生け捕り、そして殺してきた。食べるという日常の行為そのもののなかに、古代は今よりももっと身近に生と死をめぐる濃密な観念があったにちがいない。
たとえばアイヌの熊送り(イオマンテ)は「自然の王である熊が、自分を生贄(いけにえ)」として人間の世界に贈与をおこなう。人間は熊に感謝して、ていねいに魂を送り返す」(中沢氏)、「もう一度もっと豊かにこの世に戻っていただく、死と再生の儀式」(坂本氏)であり、これは諏訪の御頭祭が示す意味を考えるうえでのヒントになる。
自然は個人の生を超越し包摂し、生きることは別の命を殺すこと、その死がわれわれの生を支えているということ、死はなんらかの再生と結びついているであろうこと。そうした観念に支えられていなければ、1300年あるいはもっとそれ以前から諏訪地方で御頭祭が続けられているわけがないと僕は思う。
人間が自然をコントロールできると錯覚し、いつのまにか死について、忌避し隠蔽するようになって久しく、そのバックラッシュは至るところで起きていると感じられる。矛盾や葛藤を経験できる家族・友人・恋人関係はもとより、ひとの生き方、死に方を社会のうちに基礎づけるベースメントも失われて久しい。便利さと裏腹に、ぬくもりだとかザラザラした感じだとか、生きる手ごたえを感じているのかどうか自問するに至り、諏訪に足を運んですぐには言語化され得ない不思議に身を浸すことが僕には必要だったのだと思う。
それから、自分のことだけではなく、年下世代の若いひとたちにも伝えていかなければいけないことがあるんじゃないかという危機感もこのごろ持つようになった。
いくらAI化やシステム化が進化しても僕らの人間としての本能や五感とか感受性とかが退化してしまってはつまらない。
たとえば先日のことであるが、外は雨が降っているのかどうか、気にしている子がいた。塾から一歩出てじかに確かめればいいはずなのに、あるいは雨音に耳を澄ませてみれば事足りるはずなのに、かれはスマホで雨雲レーダーを調べている。レーダーの精度は確実ではないし、外がいま雨なのかどうか気になるのならちょっと見ておいでと僕は言った。
だがしかし、思い直してちょっと待てよ、念のためこの子に聞いておこう、そう僕は思って聞いてみた。「なんでそこでスマホなの?」
聞けば外に出るのは面倒なのらしい。しかし僕からすれば「面倒くさい」や「疲れる」はもう少し違う場面で使って欲しいのである。不思議に対するアンテナがおとなより敏感な一方、そうした感受性は、わかるがしかし、と僕は思う。
自分がテクノロジーを利用しているという自覚があればいいのだろうが、自然とそれに僕らは巻き込まれてしまっていないだろうか。巻き込まれていけば本来面倒くさくないことだって面倒になってくる、それが関の山じゃないか。その子に限らず僕は自戒を込めて。
そのあたりのことも関係して、縄文が僕のなかで結ばれるのだろうかと思う。縄文以来、ことばは僕たちの言語以前の五感と結びついて、その規模はともかく、共同体のなかで還流していたはずなのだが、この頃ではずいぶん実体の伴わない言葉や概念がひとの行動に影響してしまっている。実体験の共有の手段があまりに乏しいためにそうなるのだろうか。個性とか多様性のもとに、ひとのイメージは表層的なことばで言いくるめられて、修正する機会を持たずに勘違いのまま生きづらい日常を送る人が多いので、これは何とかせなあかんやろ、という印象を僕は持つ。
ひとと環境、歴史を往還する旅をこれからも続けてみたい。
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