コロナ、ウクライナ-ロシア問題に加えて、安倍元総理殺害事件が起きて10日あまり、日本の社会と共同体の空洞化をめぐる以前からの問題が再燃してしまったのではないかと感じている。

 また、lone wolf(一匹狼)的な犯罪は、ある意味われわれの社会にとってその都度衝撃的でありながらも、もはや僕たちの社会にとってお馴染みになってしまったことを思う。

 他者を殺めることによってしか、ある個人の心の救済が果たされないという、非常に不幸というか、あってはならない場合があるとすると、それは個人の心理がもたらすゆえなのか、それとも、包摂力の乏しいこの社会のゆえなのか。どちらか一方ではないのならば、双方がどうやって絡み合っているのか、このような問題が起きるたびにあらためて深刻に考えさせられる。

事件以降のこの間、知り得た情報のなかで容疑者の履歴の凄絶さに僕は絶句した。容疑者の41年間の半生は経済的、社会的、精神的な、いろいろなものの喪失や奪われ続けた簒奪の歴史だったかもしれない。

ちなみに彼が成人してからの20年間、日本の社会は、就職氷河期や非正規雇用の拡大、他人との関係を必要としないシステムの便益化が進む一方での個人の孤立、ひとが普通に暮らせる条件が崩される社会の劣化、それと反比例するかのように自己責任や自助が逆に押し付けられる方向に進んだ。

たくさん列記したが、そこに絶句するような彼の個人史が重なる。

自分が彼と同じ境遇に置かれたと想像すると、この世の中に生きることの意味を肯定的にとらえる自信がなくなり、はっきり言って自分の思念や言葉は宙をさまよって失う。だからおのずと漂流するままに書くことになる。

そうは言いつつも、、いきなり饒舌になるわけではなく、あくまでたどたどしく、矛盾も含むが、一方で芝の増上寺で安倍元総理の葬儀が行われたあの日、相当な数の人々が沿道でゆっくり進む霊柩車に向けてスマホを向けていたことについて書こう。

あの人たちはきっと安倍さんという、最長期間わが国の総理を務めた有力政治家の命がまさかあのような形で奪われるとは思いもよらず、突如降りかかったショックから集ったのだろう。普段から政治的な人はあまりいないように僕の目には映った。どうしてそう思ったかというと、垂れ幕やスローガンのかかれたボードを見なかったのが大きい。ところで、あの人たちは車列が過ぎたあとどうしただろう。一時のお互い見知らぬ他者との感情の共有に身を浸しながらも、やがて間もないうちに散り散りばらばらに静かに電車に乗って帰っていっただろうか。まさか、笑顔でハイタッチした人はいるまい。そしてスマホで撮った画像を各々どうやって見つめただろうか。僕はひと群れのあの人たちのことが特に印象に残った。

僕は増上寺に押しかけた、あの人たちを何か異質なふうに見ているわけではない。テレビ中継を見ている自分のなかにもあの人たちと同じ心性があるのだと思う。独断と偏見、そして少しのためらいのまま言うが、要はぽつんぽつんと皆それぞれなんだか不安なのである。無心にスマホを通り過ぎる車にかざすそれぞれの姿に、「ぽつんと」孤独な個人の不安が象徴されているような気がしたのである。お前の個人的な不安を勝手に画面の向こうに投影しただけだろう、といわれれば、ほんとにそれまでなのだけれど。

しかし、事件直後、選挙直前に与野党問わず複数の政治家が言っていたことだが、「この犯罪は民主主義に対する大罪」云々の言説については、選挙前だから仕方なかったかもしれないけれど、僕は当初から違う気がしていた。だいぶ前から「民主主義」社会がこの国では機能していないだろうと思ってきたからだ。つまり、30、40代以降の世代であればシェアできる感覚なのではと思うが、えー、これはないんじゃないのとそれぞれの個人が思うことが十分な議論もなされず、なし崩しに決定されていく失望をこれまで相当味わってきた。原発政策しかり、集団的自衛権の憲法解釈しかり、特定秘密保護法案しかり、森友問題の不追及しかり、オリンピック開催しかり、である。選挙の投票率も低いまま、国民のそれぞれの声が政治に届き政策に反映されている充実感も少ない。だから何を今さら民主主義なのかという思いがある。

民主主義を守れ!と声高に叫ぶ人たちの頭には、すでに出来上がった完成態としての民主主義がイメージされているとしか思えず、自分に都合よく民主主義という言葉を利用している感じがある。ポジショントークに傾く。日数が経つにつれて、旧統一教会と政治の癒着が明るみになり、また立法府での議論もないまま安倍元総理の国葬が決まるなか、皮肉にも今回の事件はそうした「ご都合民主主義」の悪弊を逆に照らし出す引き金になった。

さて、そうした僕がそう言う主張の背景には、ひとつの問題意識がある。それはこの社会を覆う、たこつぼのように分断し孤立している個々人の問題だ。その個人をいかにして結び付けるか、そのためのプラットホームを子どもや青年の教育の観点からいかにして具体的に立ち上げることが可能かというものだ。結局はそこに収斂する。このような時代だからこそ、政治に任せるわけにいかないのであれば、自分でできることをやりたい、という思いがある。

多様性を担保しながらも柔らかく、さまざまな世代の個人をつなぎ止めるような、いささか夢のような、共同体をつくりあげる実践。その共同体のサイズがどんなに小さくても、それで自分はいいのだと「少しでも」思える場所。同時に他者の意見をオープンに聞けて異なる他者と自分が認め合える場所。それを僕はつくれたらなと思う。中身がなんでもありとはいかないが、思想は多様であるほうがよいし、特殊な言論や党派性に偏することもないままに、周りから少しの元気を得て、個人が自分たちの物語を紡ぎだせるような、そんなところ。営利目的のビジネスでも政治の世界でもない。。作れないだろうか。(続く)