千葉の稲毛海岸の松林で松ぼっくりを拾いました。ピタゴラスイッチというTV番組で紹介していたのですが、松ぼっくりは水に入れるとかさをいっせいに閉じ、また乾かすとゆっくり下のほうから花が咲くようにひらいてきます。本当にそうなるのかなと思って、家にもちかえり実験してみるとたしかに。僕は知りませんでした。どうしてなんだろう。みなさんご存知でしたか。

この頃、センス・オブ・ワンダー(sense of wonder)ということばを生物学者の福岡伸一さんのYouTubeを観て知りました。センス・オブ・ワンダー。直訳して、不思議なことをそのまま驚く素直な感覚、といえばいいでしょうか。今夜はそれについて書き連ねてみたくなりましたので、どうぞ興味を持たれた方は、しばしお付き合い下さい。

 まずは息子の話になります。5歳の彼は、勧善懲悪系の忍者への関心が強い一方で、(まあ、善悪に関心があるのはそれはそうだよなと思うところもありますが、親としては、善悪を見極めるのはほんとうは難しいよ、といいたくなることもあります)結構な頻度でおさるのジョージやピタゴラスイッチというTV番組を熱心に飽かずに観ているのですね。きらきらと目を輝かせています。僕もいっしょに観ることがありますが、最近、彼がその番組を好きになる理由がわかるような気がしてきました。

 それは番組内のいたるところにひょっとすると、センス・オブ・ワンダーが充溢(じゅういつ)しているからなのではないか、ということなのです。

 おさるのジョージは人間のことばをひとこともしゃべりません。身の回りのひと、たとえば職業不詳の黄色い帽子のおじさん、博物館の人たち、ビスゲッティ夫妻や、その他いろいろな人々、動植物豊かな自然に取り囲まれながら、驚いたことをもとに彼なりのアイデアで行動に移し変えます。それがときにハチャメチャな結果になるので視聴者のため息や笑いを誘う。

 ピタゴラスイッチも、ある意味ことばを極力排したところがおさるのジョージと同様です。

 放送の間、ことばを極力省いて、ただただ、球やドミノのピースがあらゆる仕掛けを芸術的にかけめぐり、はね、おち、飛ぶ。思わず「うわぁ」とこちらが唸るレベルです。

そのこともあってか、福岡さんのセンス・オブ・ワンダーと発する言葉を聞いて、僕のモヤモヤしているものが、その一言で一挙に腑に落ちた気がしたのです。大げさですが、言い表したいこと、周辺をふわっと漂っている声とか風みたいなのをそのまま表現する言葉を僕はこの瞬間つかんだ気がしました。

センスオブワンダー!

そもそも、自分自身言葉を操るのが下手で、肝心なところですぐにパッと言葉が出ないと思いながら過ごしてきているので、いろいろ損もしてきました。しかしだからこそ、というところがあります。ちょっとした生活の場面で感じる自分の気持ちをすくい上げてくれる言葉に出会う、その瞬間には敏感になります。言葉が新しい意識の窓を開く、そうすると、瞬間、ぱあっと解き放たれた感覚になります。ぴたっと対象にあてはまる言葉が見つかると、分裂のない喜びをもたらし、新しい発見の意識をうながすところがあるのですね。

いっぽうで言葉は世界や自然を分節する機能があり、たとえば明るいと暗い、おとなと子ども、健常と障害とか、なんでもいいわけですが、その切断したところに当てはまらない領域にも白 / 黒と決着をつける機能があります。分けるから僕たちは分かるというふうになるのですが、本来そうすべきでないものごとについて無理やり分割することで境界線は生まれ、僕たちの社会はいろいろな領域で差別や分断をもたらしてきました。

 それからもう一つ、日々の生活のなかで言葉を自動的に機械的に反復し使用しているうちに、言葉のほうがありのままの僕たちの経験する世界や自然よりも先行して使われてしまう側面があるのだと感じています。

 もう少し正確にいえば、本来、世界や自然や自分の取り巻いている環境をじかに経験することのほうが先にあるはずなのですが、暮らしているうちに「慣性の法則」で、言葉が先にきてしまう。あらかじめ言葉によるガードが実在にたいする目を曇らせてしまう。あるいは言葉が論理的帰結として別の言葉を呼び出し、ほんとうのこととは無関係に進むことがあります。極端な場合には謳い上げられたり、いびつなかたちに歪められてしまいます。

普段の生活では言葉は便利です。が、肝心なときは不完全です。かえって言葉が余計になるのです。肝心なときというのは僕たちが不可解なことに当惑したり、不思議に出会って驚くとき、つまり言語以前のセンスオブワンダーの感覚を経験するときです。しかしこの感覚を長く保持するには集中する訓練が必要です。そのままにしておくと案外早いうちに色あせてしまうものらしいということを僕たちは知っています。それには言葉を伴う思考の努力が必要だからです。

さて、言語以前の感覚を経験したとき、私たちはどうするでしょうか。そのまま忘れる場合を除いて、私たちの取る行動は2つに一つ、日常の習慣的なことがらにそれを意図的に落とし込もうとするか、それをなんとか意識の努力で表現する方向に進もうとするかです。前者は別に何でもなかったのだろうというふうな方向に進みます。例えば、驚いたんだけれどそれを驚かなかったことにする、というふうな。自分が変わらないことに関する安心がここにあります。しかし後者は驚きの感覚をもとに新たな思考や行動に僕たちを向かわせます。自分が変わる可能性があるのです。

ところで両者とも子どもの教育の領域として考えることができます。前者は日常的なものの連続、昨日はおとといと同じ、今日は昨日と同じで、だから明日もきっと今日と同じだろうと感じることでの心理的安全を与えてくれるでしょう。ここに教育がアプローチするのは大事なことだと思います。毎日何が起きるかわからない世界というのはだいたい不安に満ちていますから、子どもの気持ちの安全保障を教育で支えるのはとても大事なことです。いちいち目の前の出来事に驚いていたら身も心ももたない、私たちの意識はそういうふうな構造になっています。それを前提としつつも、しかし私たちの心の活動がもっともいきいきと躍動するのは後者のとき、つまり新しい発見の驚きに関してではないでしょうか。この発見は一回性と呼びましょうか、日常の反復のなかから生まれ出ようとする宝石みたいなものとでも言いますか、ともかく稀少な機会です。

この稀少な機会、それはどんな小さなことですら、私たちがほんとうに何か分かったと思うときの多くは、観察してみると喜びの感情とともに新しい言葉をつかんでいます。ああ、とか何でもいい。概念的な言葉よりは叫びに近いほうがたぶん望ましい。ともかくその発した言葉こそがさらに私たちを新たな思考や行動に誘うものだと思います。

(僕のこの考えは昭和の思想家、小林秀雄とかフランスの哲学者アンリ・ベルグソンにその多くを負っています。先に紹介させていただいた福岡伸一さんや、少し前に惜しくも亡くなられた音楽家の坂本龍一さんにも僕は影響を受けています。この人たちの著作や作品に触れると、何よりも生命に関して敬虔な気持ちを抱いていることがストレートにわかるのです。そして社会のしがらみから自由で、自分が不思議に感じた対象との格闘、付き合いがそこにあります。よかったら読んでみてください。あるいは坂本さんに関してはその音楽を著作とともに聴いてみてくださいね。塾内の何気ないスペースに割とたくさん置いてあります。)

このようなわけで、チャットGPTも開発されたことですし、ますます私たちがじかに自然や世界に触れて驚き経験し、経験したことの不思議をそのまま記述するような言葉や文章の道筋は今後ますますやせ細っていくのかもしれません。すでに表層的な、システム化された言葉で満ち溢れている世の中で、しかし、人間に持てるものはセンス・オブ・ワンダーです。チャットGPTにはそれがありません。単語や概念を組み合わせて事実の輪郭らしきものを浮かび上がらせるだけで、どうして真実に迫ることができるのでしょうか。いくつかの単語や概念を統計的に、センスオブワンダーとは関係なく機械的に組み合わせて、もっともらしい主張をして、だから何なのでしょう。

チャットGPTは、いちいちのほんとうのことや真実を考える必要のない、われわれの実生活の効率化とか、便利さに関係する領域のみにおいて利用可能だと、どうして専門家はもっと声高に言わないのでしょうか。それも不思議でたまりません。ただただ新たなAIの出現を怖れているだけの人も多いようなのですが、それは違うのではないかと僕は思います。

事物の探求と新しい創造性の源泉は常にこれまでと同じ、センスオブワンダーを端に発する自然や世界との取り組みの努力の集積にあるはずで、AIに真実性と創造性を求めてもそれは無理なはずなのですが、皆さん、僕の意見についていかがでしょうか。

絵や音楽や文学の領域にまでチャットGPTやAIが入り込んでしまってそれが脅威と感じられるのであれば、人間の表現の領分を悲観的にとらえるのではなく、余計な情報をそぎ落として、僕たちのセンスオブワンダーの感覚をよみがえらせるための手段を考えましょう。真実とか創造に対する僕たちの感度をみがきましょう。

深夜にかかわらず少々熱を帯びてしまいましたが、

塾の子どもたちをみていて、若いお子さんほど、センス・オブ・ワンダーに満ち溢れているし、教えられることも多いのです。僕は率直にその芽を伸ばしたいと思います。また、どういう条件がこの感覚を鈍らせてしまうのか、そこにも注目したいと考えています。

そろそろ最後になりますが、松ぼっくりに戻ります。ふつう水に入れるともっとひらくと思うんですよね。乾燥ワカメがそうであるように。しかし真実は逆。水に入れると閉じる。乾かすと開く。とても不思議なことです。しばらくこの不思議に浸っていたい。ここに自然の編み出した知恵がきっと働いているにちがいない、僕はそう思います。今度子どもたちにも見せようと思います。僕はこういうのが楽しいのです。

書いているあいだに上のほうも開いてきました。それではおやすみなさい。

7月18日追記

高3生、京大医学部志望のTくんが、この松ぼっくりの不思議について、仮説を立てたうえで調べもしてくれました。初夏に松ぼっくりが地面に落ちたあと、盛夏を過ぎ秋になると新しい次世代の松ぼっくりの外側の繊維が中の種子を守るため、それに必要な水分をキープするために、内側に閉じるような構造になっているのだと。それは、誰が設計したの?やはり自然が設計したのでは、ということ。なるほどなあ。  Tくん、いいね、ありがとう!

ここで一歩前進したように思います。

そうすると、、松はどうしてそのような特質を獲得したのでしょう。松は進化の過程でたまたまそのようになるべくしてなったのでしょうか、それともこの松のメカニズムはあらかじめ自然の設計図にしたがって「合目的的」にそうなったのでしょうか。

松もこの世界の立派な生命であることに間違いはないとすると、生命にはプリセットされた目的とか、あらかじめ初期条件が整えられていれば生命現象とともに誕生から進化や死に至るまで、全て言葉による説明が可能だという意見に、僕は異を唱えたくなります。そこには僕たちのセンスオブワンダーがないからでもあります。生命現象についてもいずれAIの力を借りてひとがひとをコントロールしようとする時代が早晩きっと来るのでしょう。しかし、それは真実にたいしてどのような関わりを持つのか?という問題提起をしておきたいと思います。センスオブワンダーはわれわれの無知から来る愚かしい感覚の産物なのか、それとも真実性に接近する可能性を持つ大事な感覚なのか、いずれまた、べつの論考で綴りたいと考えています。