2月7日土曜日午後、第4回TALKROOMを開きました。参加者は小5~中3までの5名。日中、乾いた北風が間断なく吹きすさぶなか、よく参加してくれました。本論に入る前にしりとりトークを試みました。

じゃんけんで順番を決めたあと、最初のnaさんが自由に2分間話してから、naさんの話の内容やキーワードをひろって次の人が話し、順次同じように回していくというトークゲームです。私も参加して2周しましたが、主に人間関係や秘密の保持、三人関係のむずかしさについて、それぞれ隣の人の話を引き受けてながら語るという結果になりました。隣の人の話をよく聞くレッスンになったかもしれません。次回も試みたいと思います。

さて、ひとは死んだらどうなるのか?というトークの本論です。まず、死んだらあの世はあるのかないのか、挙手してもらいました。すると、驚いたことに5人中、あの世があるに対して、手を挙げたのはsさんひとりのみ(はっきりそう思うわけではないので0.5人とのこと)、他の4人は、あの世なんてないという意見です。

今回のテーマの提案者であり、多数派の代表Nさんによれば、所詮あの世というものはひとが作りだしたもので、たとえば天国と地獄という概念は、子育てのうえで親が子どもに、「そんなことをしたら地獄に落ちるよ」という罰や恐怖の念を植え付けるため、そして「天国に行くためには善行を積もう」という、ひとのさもしい欲求から生み出されたための仮構、フィクションだとのこと。さっそく興味深い意見がでました。

そうすると、ひとは何らかの見返りを求めて他人を助けたり、善とされることをするのだろうか?という意見。ひとはもともと縄文の昔から集団的に暮らしていて、そのDNAを受け継いでいる私たちは、例えば道で知らないおばあさんが転びそうだったら何を考えるよりも前に、とっさに手を差しのべるということもありはしないか?という問いに対し、うんうんとうなずく人が数名。

その一方であの世や来世がなかったとしたらめちゃくちゃ人殺しをしてもどうだっていいんじゃない?そういうことにはならないの?との問いかけに対しては全員がNOでした。

つまり「ひとの道としての道徳」はあの世があろうとなかろうとそれに先立ってあるべきということなのか?、なのだ、という話になりました。

(ここはすごい論点なのだということを言いました。なぜなら、哲学者カントの「超越論的仮象」に類する話が出たからです。

僕の理解によればカントのいう「超越論的仮象」とはこういうものです。たとえばひとに自由意思があるかどうかはほんとうはわからない、しかしひとの理性によってそれを排除することができない。もしもひとに自由意思がなかったとすると、個人の責任や罪について社会のなかでどう扱えばいいのかわからなくなる、だからひとの自由意思はほんとうにあるかどうかは別として、社会のいわば擬制としてある…。

ひとをだましてはならない、ひとを殺めてはならない、というのは国の法律でそうなってるからですか?ということでもあります。法律ということなのであれば、戦争国では仲間以外の敵を殺し、だますことは奨励されます。あまつさえ、戦中の前線の日本兵のなかには、日頃、理不尽なことをする上官から突撃命令がくだると、仲間を守るためかまずは上官の頭を銃で撃ち抜く者もいたそうです。

しかし、それ以前のひとの理性によってそのような行為を認めることができないのではないか、もちろんそれらをする一定の人間がいますが、加えてしかし、もしもひとたび社会の中でそれらが許容されてしまえば、ひとの自由意思と同じく、この行為をどう扱えばいいのかわからなくなる。だからひとをだましてはならない、殺めてはならないという道徳律はひとの理性の判断で存在してしかるべき→法律でそう定める、という議論です。あの世があってもなくても。)

それから、あの世はなくても神はいる、という発言があり、これまた興味深い内容のものでした。あの世がないのなら神様だっていなくてもいいんじゃないのか、そのほうがスッキリしていてと僕がいうと、NさんSさん、スッキリするしないの問題ではないのだそうです。凄い!Sさんはそこで「じゃあ、神の役割はなんだろう?」と言います。あの世がない=神もいない、というのでなくて、あの世がない=神がいるというのなら神には役目があるだろうというわけです。いい問いかけでした。メンバーのあいだで無言が続きます。

ちなみにその沈黙のあいだに、「来世はないけれど神のような人間を超えた存在がいると思う人は?」と質問すると、「いる」と答えた人が5人中なんと4人。

そもそもですが、あの世はない、しかし神のような超越的存在はいる、という話はこれまで僕は聞いたことがないというか、考えたことすらなかった。だから衝撃的でした。

神の役割は?しかし皆さんイメージすることは難しいのか、自分にだってそうなのですがなかなか言葉が出てきません。

そこで僕のほうから、(僕自身、特定の宗教への信仰をもたないにもかかわらず)いくつかの世界宗教での、神(超越者)と人との関係について述べることになりました。

たとえばキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の神は共通の「ヤハウェ」で、この宇宙も世界も神自身がつくったものです。当然人間やほかの動植物をふくめた森羅万象も神がお造りになりました。酷い戦争が起きていても神は静観しているようにみえますが、神の意思は神のみぞ知る、人智をはるかに超えたものです。例えばユダヤ・キリスト教の旧約聖書によればもともと人は神に背いて知恵を得たので「原罪」がある存在で、キリスト教ではイエスの受難の死により全人類の罪は神により赦されました。死ねばひとの霊魂はあの世に上り、信じる者には神からの救済があります。イスラム教では原罪というものはない。その代わりスンニ派、シーア派など多くの宗派で厳しい戒律がありますが、死ねば天国があります。後述する輪廻転生はありません。

一方、仏教では神はいません。ではこの世界はだれが造ったのか。そのはじまりは「空(くう)」という、エネルギーが充溢した無です。仏教の様々な宗派に共通するのはこの神の不在とあともう一つ、輪廻転生です。ひとには前世もあるし来世もある。生きて死んで、またべつの生命体に生まれ変わって生きて死んでを果てしなく繰り返します。これ自体が業苦です。現世での目的は「私利私欲に囚われず善く生きること。」そしてひとが死にますとあの世があります。不勉強で申し訳ありませんが、あの世にもいろいろな次元があるようです。

(何かにつけて思い出すのは、僧侶で作家の故瀬戸内寂聴さんが最晩年、画家の横尾忠則さんと朝日新聞で文通形式での連載をしていたこと。そのなかで瀬戸内さんが「あの世にもいろいろな階があるから、私はあなた(横尾さん)とはあの世で会えないかもしれない」と書いていたことです。なるほど、とそのとき妙に納得したことを覚えています。ほんとうは理解などできていないのですが、現世でたとえ縁があっても、あの世でのステージはその人の現世の生き方によって違ってくるから会えないこともあると。)

さて、メンバーたちには、輪廻転生に関連する例で佐野洋子さんの書いた童話「100万回生きたねこ」の話をしました。ご存じの方も多いでしょうが、こういう話です。

あるオスのトラネコはいろんな飼い主のもとに飼われては、生きて死んでをくりかえします。それはどうしてかというと、自分が一番大事で、ほかの存在を愛そうとしないからです。でも100万回目の生(100万回!)で、トラネコはメスの白いネコと出会うことになります。その彼女を前に、懸命の飛んだり跳ねたりのアピールをことごとく無視されてのち、おずおずと告白、そしてめでたく結婚し、何匹かのかわいい子どもがうまれて…というわけで、トラネコにとっては、はじめて自分よりも大事な存在ができます。やがて年を取り、子どもたちも自立して家を離れていき、妻の白ネコと平穏な生活を過ごしますが、そのうち白ネコもしずかに息を引き取る時がやってきます。トラネコはワンワン泣きました。(ねこだからニャーニャーでしょ?とSさんからのツッコミが。その通りだね。)そして、トラネコ自身もやがてかれの生を終える…という話です。一番いいところはあえて書きません。読んでみたい、と言ったメンバーがひとり。

その後、臨死体験の話もしました。事故や末期の患者さんがその時意識はないはずなのに病床で自分の身体から「たましい」と言わざるを得ない意識が上のほうに抜け出て、天井から医師や家族が会話しているところを会話の内容まで克明に眺めている、あとから意識が戻ってそのことを家族に伝えると驚かれた。もう一つ、やはり事故か何かで重篤な人が夢で長いトンネルをくぐると、突然辺り一面お花畑のようなところに出る、そうするともうすでに亡くなった自分の肉親や友人が楽しそうにしていて、自分もそこで安らぎのひとときを過ごしていたが、「実はあなたはまだ来るところじゃないから戻りなさい」との誰かの一声で、戻りたくなかったけれどまたトンネルを通って気がついたら病室のベッドの上だった。こうした話は世界中でじつはよく聞かれるもので、古くはウィリアム・ジェームズ「宗教的経験の諸相」、近年では立花隆「臨死体験」がその膨大な臨死体験の記録をまとめています。メンバーたちは結構びっくりしていた様子でした。

論点です。宗教の信仰のかたちがいろいろあるということ自体が嘘のまやかしか。それともひとが神や超越者を経験するためには、それぞれ固有の言語や文化や個人の生き方をつうじてしかないのだから信仰形態が自然にいろいろあるというふうに考えることもできる。皆の多くが神(超越的存在)がいるというのであればどう考えるだろう?

もうひとつの論点。臨死体験などでかいまみられる離脱体験やあの世は、ひとの脳内現象にとどまるものか、それともそうでないか。

ここでタイムアップ。今回は途中から僕が話すことが多くなりました。いずれにせよ難しい問題です。結局わからないという話に行き着いてしまったのですが、僕にもまだわからないことだらけで最後に挙げた論点についても問いながら生きている次第です。

さて、次回TALKROOMの日程は3月中のどこかでと考えていますが未定です。テーマは多数決により、「モテ系男女になるためには」(5票)、「南海トラフ地震の規模と避難行動について」(1票)ということで、「モテ系~」に決まりました。

今回のが難しかったせいか、聖から俗世界へがらっと一気に針路が変わったようで(笑)、しかしこの位のテーマのほうがメンバーの新規参入が見込めるのかも。さて、どんなトークになるでしょうか、見当もつきませんが、次回もどうぞよろしくお願いします。

最後になりますが今回はSさんのご両親からお菓子の差し入れとTALKROOMについての温かい励ましのお言葉をいただきました。

ありがとうございました。