自分が思春期の頃、「ほんとうは『もう少しずつ』みんなが優しくなれたら、世の中がよくなって、苦しむ人も減るのにな」とつぶやいた人がいたことを今でも時たま思い出す。確か「もう少しずつ」という箇所がルビになって強調されていたことが記憶にあるので、おそらく自分は何かで読んだのだろうか。出典はだいぶ前のことだからもう忘れてしまった。

なにかと他者を責め合う世の中だとつくづく思う。テレビのワイドショーとかでは、何かの事件性があるテーマをみつけては、しつこいくらいに何度も何日も取り上げているが、自分などは食傷気味でなるべく馬耳東風、スルーしている。まるで世の中のことを自分とは関係のない「彼岸の出来事」として取り上げてひとは安心するとでも思うのだろうか。あるいは、大きな不安に陥らせようとでもいうのだろうか。いずれにしても、自分のポジションを変えずに他者をあれこれと操作することで自分の落ち着きを払おうとする姿勢は、加害者だろうが、それを取り上げるマスコミだろうが、どちらも同じように自分には思えて仕方がない。
それはしょうがないことだろうか。

一面で自分は子どもや青年を見ていてホッとすることがある。それはどうしてか考えてみることがあるが、かれら・かのじょたちは時代に影響をもろに受けながらも、それを超えようとする純粋なエネルギーがあるためなのではないか。その純粋さが未熟とはいえども子どもや青年の持つ「若さ」なのだろう。
もちろん自分は、いまの子どもや青年の「もろさ」も感じることがある。これは世の中や時代の影響をまともに受けて、自分の身を堅牢な鎧(よろい)で固めてディフェンスしているような子や青年に「稀に」接するときがそうである。

さて、自分は思春期の頃どうだったかと省みると、時代は違えどやはりもろかったように思う。その頃に体験したであろう「思春期葛藤」は、本質的におとなになっても癒えるものではないと思うのだが、自分の思春期での未解決の葛藤の部分があるからこそ、子どもや青年とつながるチャンネルを保つことができる。かれら・かのじょたちがふっとこちらに漏らす言葉で自分の昔を思い出すことがあり、そこで冒頭の、「ほんとうは『もう少しずつ』…」のことばが自分の頭に去来したのである。

少なくともいまの子どもや青年たちは、詳述は省くが、言いたいことがたくさんあり、そこでことばで表現されたものや態度で表出されるもの、そのうちのかなり多くはしっかり耳を傾けていいものであると自分は思う。そうして、、「ほんとうは『もう少しずつ』みんなが優しくなれたら、世の中がよくなって、苦しむ人も減るのにな」と若いひとたちに語りかけたくなることがある。