
先日10月18日の第7回TALKROOMのテーマは10代の恋愛事情について、そのご報告です。
参加者は小4から中1までの5名。女子3名男子2名という少数精鋭が集ってくれました。
まずは最近恒例のしりとりTALK。じゃんけんで負けた人から順に好きなテーマについて話し、その中のワードを拾って次の人が話します。もっぱらサイゼリヤの話になりました。私も熊野前店にはよく行きますが、サンポップ町屋店は広くていいですよね。こんな感じです。常連のメンバーはだいぶ上手く話せるようになったのではと思います。
さて、本題について、どこから話しますか?ということで、あらかじめ配っておいたフローチャートを見て、「蛙化(かえるか)現象について」がTALKの切り口となりました。

とくに保護者の皆さんは「蛙化現象」ということばを知っていましたか?
私はごく最近になるまで知りませんでした。うちのスタッフMON女史(24)によれば、もともとは男女がつきあいを開始して、まもなく恋人の振る舞いに失望してそれまでの恋心が一瞬にして冷めることを指すのだそうですが、そこから転化して、いまは「好きになった男女の片方が、相手も自分に対して好意を抱いていることが『わかった瞬間』、自分のほうの好意が冷める」という現象をさすのだそうで、私などは率直に後者のほうの気持ちがわからないので、そんなことってある?と聞けば、その気持ち分かると言った人は1人だけ、それ以外は分からないということでした。つきあって始めて自分の思い描いていた相手の理想像とは違って、こんなはずじゃなった、幻滅した、ということならわかるような気もするのですが、その手前の時点で相手も自分のことが好きと分かったらそこで気持ちが萎えて(なえて)しまうということに関しては、うーん…というところでした。シンプルにじゃあハッピーエンドにはならないの?と思うのですが、そういう簡単な話にはどうもならないようで、メンバーたちが追及することにはなりませんでしたが、同時に多数派の4人もイケイケドンドン、という感じとは違うようです。
秘めた恋心(が大事)、とぽつりとつぶやいたメンバー2名おりまして、数十年前の思春期少年の自分と変わらないなとホッとするところがありました。
途中参加の新しいメンバーから恋愛相談風な発言もあり、またそれに対するアドバイスもありましたが、総じて今回のTALKはひょっとすると気恥ずかしさから口ごもる場面も多く、なかなか先に議論が展開しないようでした。思春期の恋愛というテーマでは実はこれでよかったのではないかと思います。
恋愛。誰か他の人を好きになるって、わけのわからないことなのでは、ということを私(入山)は持ちかけました。私の10代での恋愛の失敗談をおもしろ可笑しく披露する場面もありましたが、恋愛感情はそもそも自分が発明したものではなく、まるで上から降りてくるもので、ひとがなぜ恋愛するのかは考えてみればとても不思議なことです。ギリシャ神話ではクピド(キューピット)のいたずらで恋が生まれますね。子どもの天使である彼が気まぐれに、えいっと恋の矢を地上の人間に放つ。そうすると自分でもわけのわからないまま相手のことが急に気になるという。
きっかけはわかりませんが、ともかく恋に落ちてだれか特定の相手のことを大事に思い、その人のことを思えばなんだか優しくなれる気持ちは人間らしい感情ですね。この他者に向かう純粋な気持ちは大切にしていいのではないでしょうか。一方で、この感情をみますと自分の欲や不全感に跳ね返ってくるものがあります。ここは非常に複雑で人それぞれなのでしょうが、下手をすると自己満足になったり、自分の思いを満たしたいためだけに恋愛する人もいるようです。あれれ、相手はどこにいったのか?
こうなることがあるようです。
本来はその人が大切で幸福だと知れば自分の恋の成就はどうでもいいことで、かえって諦念(ていねん)が恋愛を純化するところがあるのかもしれません。しかし、これでいいのだと簡単にいかないのが恋愛の難しいところかもしれず、それはどうにもこうにも自分の欲とか人間性がかかわるからです。
ここからはTALKROOM内で披露した話ではなくメンバーの参考になればいいと思って書くのですが、みんななるべく失恋したくないから蛙化現象もあるのですね。「蛙化」は少なくとも相手からの拒否を含んでいません。その前に自分が相手を見限るのです。
また、別の回のテーマにもなりましたが、モテ系男女になるにはどうしたらいいか?という方向で思考が進むのは、きっと相手も自分のことを同じように見てくれているかもしれないという、本当はただの誤解に過ぎない安心感を得たいからというのもあります。
要は自分が相手から拒否されること、自分がその異性から認められてないということを多くの人が怖れるのだと思います。確かにそれはそうだ。それを怖れて「蛙化」ではその前に相手を振る・切るのです。そして、それからモテ系になるために自分の身なりを整えようと頑張るのだと思います。そう考えると私もかつての当事者として気持ちがわかる気がしてきます。
他者からの自己承認。ひとつはここです。
自分はとても大切。そうしてもらいたいです。とくに相手から突然恋の告白をされたときには性急に結論づけるのではなく、自分が大切ですからちょっと時間をあけて考えてほしいと思います。お相手から性急に求められたら少し距離を取りましょうね。ひとは自分のことをよく理解してくれないまま好きだっていうことがあるのです。裏返していえば、しかし、自分が相手に恋心を抱いてしまった場合はどうでしょう、自分の承認欲求を満たすためだけに恋愛をしてしまってそれだけでいいのか?
そもそも恋愛感情はなぜこの人に対してなんだろう?と考えれば、わけのわからないもので、日常生活を送る上での意識とは違う、深いところから出てきているかもしれませんので、私も恋愛の本質なんて深すぎてわかりません。
だから自分の経験上でわかったことだけをいうのですが、恋愛するという行為には当たり前ですが他者がかかわります。この他者性ということに関して、君たちの長い人生のなかでほんものの恋愛と同時に失恋を経験しておくことも「いい」ことなのではないか。
何がいいんだ、失恋って最悪じゃないか、と思う人たちは、まあまあ落ち着いて。
それは、早くから他者と恋愛成就を経験する場合とそうではない場合を比べると、後者の失敗のほうが自分や他者のことをいい距離感で深く見つめるきっかけになると思うからです。
ひとは恋愛中(片思い)にある場合、普段とはちがうくらいのものすごいエネルギーで、自分と相手が分別つかないくらいに思って行動するのだと思います。後から振り返ると、どうして?こんなこと自分はよくやったよなーと思えるくらいのエネルギーが恋の最中にはあるのではないでしょうか。恋愛したことのない人はすればきっとわかると思いますよ。相手のことをほんとうに大切に、大事に想うのであれば自分でも驚くような考えとか行動とかが実際できます。
さて、そこで失恋ということで、相手に受け入れられない場合には、確かに恋に傷つくのは自分で、相手はさして傷はつかないかと思いますが、片思いの最中の大きなエネルギーに下支えされて抱く自分と相手をめぐる考えは、あなただけのものだと私は言い切ります。そこに自分でだめだとか言って、みずから傷をつける必要は全くないかもしれません。相手のことを真剣に深く想えるのならばです。たとえ一時でも自分が相手に優しくなれて、柔らかな感情を持ったことがあって、恋する人は今何してるだろうかなどと、相手のことを目一杯想像するのであれば、恋愛成就の結果はともかくなのです。
私は結果ばかりにとらわれていたら見失ってしまうことがあるように思えるのです。
初めから上手くいけばいいかもしれませんが、しかしそう上手く行かないことの方が多いので、昔から今にいたるまで物語でも小説でも映画でも、恋愛の上手く行かない「壁」とか「傷」は大事なテーマになってきました。
あなたが恋愛中だとすると、その、あなたの気持ちは決して「〇〇現象」みたいなかたちで社会化されるものではなく、あなただけの内面で秘めてその気持ちを大事に育てていくものです。昔の人はたとえば和歌などで自分だけの、相手への想いを表現してきました。中学で教わる万葉集、古今、新古今和歌集には切ない恋心の詩がたくさんあります。一つ例を挙げましょうか。
「おもいつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを」(古今和歌集 小野小町 百人一首50番 現代訳 「あーあ、夢であの人と会えてたのにな。起きちゃった。。この夢が夢なのだと分かっていたらずっと寝てたよ」)自分が想いを寄せる人と夢の中で会う大きな喜び。思うらくは、きっと現実で相手との距離があって、ここから自分はどうしよう、相手はどう想ってるのかなどと、日常生活のことをすっかり忘れて恋に没頭する読み手の感じ、なんだか切なさが前景化します。10代の昔から好きなうたです。
こうした1000年も昔から読み継がれてきたうたを読んで、私はある種の感慨も抱きます。
それは逆張りをするようなんですが、いったい人にモテるモテない、このことは人生であまり関係のないことではないでしょうか。
けれどあなたがモテるかどうかということとあなたが恋愛をするということは違う。
少なくとも恋愛をつうじて自分だけでなく相手のことを深く大切に想うことの回路が開通する契機となる、それは非常に僕たちにとって大事なことなのではと思うこの頃です。相手に恋心を抱くことは、結果はともかくとして、深いところからあなたの人間的な成長をクピドがそっとささやくような素敵なチャンスが訪れたことになるのです。
元に戻るようですが、自分は大事。ほんとうに若い皆さんには自分を大事にしてもらいたいと僕は思います。なおかつそこに現実的に大切な恋人の存在がどれだけ深くコミットしているか。他者も自分と同じように大事。繰り返しますが、結果なんてどうでもいい。ここがポイントです。10代の思春期の人たちにとって、自分と同時に相手の気持ちを大事にしながらお互いを育てていく方向に君たちの恋の広い窓が開けているのだと思うのです。
意外ですが恋が叶うときではない、特に片思い中とか、失恋した時こそそうあってほしい。たとえ深く自分が傷ついたとしても。傷ついた君は繊細で、でも鈍感で全然だめで、恋愛のテクニックのセンスもないかもしれないんだけど、その分相手への思いを深めたあなたが魅力的に輝くこともきっとあるのです。だからこそいろいろな場面であなたが出会う人間に決して失望しないでと思います。
その意味で、結果的に恋愛経験を経て自分と他人に対してしっかり決着をつけ、ある種のあきらめと寛容さを持ち、自分と他者への信頼の作法を身につけているおとなはいるのだと思います。それがほとんどと思いたいところ。素朴過ぎますか?
そもそもおとなに問いたいですが、失恋していない人っているんでしょうか?そんな人は僕は人間的に信じたくないんだけどな(笑)。それはわからない。ひょっとしたら「無敗」のひともいるかもしれませんが、そう信じているその人が人間的に10代の君たちにとって魅力的かどうかは果たして別問題です。
反面、よくモテる人の、ある種の不幸もあって、それが続くと人は感情的に自分にも相手に対しても「すれっからし」になる危険もあります。「なんで私、オレが好きなの?よくもまあ自分のことを知らないくせに勝手に私、オレのことが好きになれるね、クピドのせいかもしれないけど、じゃあせめて自分のこともわかってほしいよ」と思う範囲ぐらいならいいのですが、これが続くと、自分にも他者にも冷たく考える素地ができます。これは一種の不幸です。
モテる人は、場合によれば自分がだめなときは相手へのコントロールを利用して自分への満足を浮上させてしまうことがあります。これでは王様、女王様キャラの専制君主タイプで、かといってここに隷属する人も絶対にいけません。
恋愛関係ではあくまでも自分も他者も大事にしようとするこころが大事で、このバランスを見極める必要があります。繰り返すようですが、そのバランサーはどちらかというと自分が相手に恋心を抱いて、おそらくは少しの距離感のある場合に身につけることができるのでは、と僕などは思うのです。「あなたがいないと自分はだめで、どうしてもあなたの存在が必要!」なんていうのは、一時のクピドの気まぐれで、そこでお互いに独立してそう思えればいいのだけど、たぶんそういうふうにこの世の中できていないのが、幾千年も続いてきた男女の歴史なんだと思います。一方が他方に定常的に依存する。他方は一方がそう思うのであればその状態を甘んじて受け入れる、それは果たして恋愛なのか。単なる他者への勝手な押し付けに基づく依存ではないですか?
さて、あなたはどう思いますか?このあたりは「愛について」というエーリッヒ・フロムという社会心理学者の本が紀伊國屋書店から出されていますので、興味のある人、ぜひ読んでみてほしいと思います。
とりとめなく勝手なことばかり言いました。もう恋愛はここまで。なんだか恋愛中の人には水を差すような話ばかりになってしまいましたね。。。
また、TALKROOM年内に一度やりましょう。次のテーマは学校の副教科はいるのかという中1生Sさんの提言をきっかけとして、校則を含めて、学校はどういう学びの場所で、どうあるべきか?という、これまた、いま学校にいる人が感じ考える大事なテーマです。日程は期末テストが終わった頃にお知らせしたいと考えています。
メンバーの皆さん、今回もありがとう。新規メンバー募集中です。どうぞよろしく。

Comments are closed.