2026/3/16の日付、塾の国語の読解で中高生向けに書きました。もしもお時間のある方、読んでいただければ幸いです。

ひとの心の機能が完全に脳に置き換えられるかどうか、置き換えられるという科学者もいる。そうではないと思う人びともいる。このことはAI隆盛のいまでも、僕たちの根源的で最先端のことなので、よくわかっていない。しかし、僕たちの心の機能として分かっていることがいくつかある。そのうちの一つが意識の切断機能、いわゆる「線引き」機能についてである。

いま、僕の目の前にはテーブルがあり、使い慣れた帽子があり、乱雑に積まれた本があり、床にはレゴブロックや読みかけの新聞や明日着る予定のジーンズがあり、何だか混沌としているが、こうしたものを僕がなにもかも意識できなかったとしたら、僕は完全なる生活無能力者であるわけで、さりとて大した生活能力があるともいえないが、まあこのように、目の前の雑多なアイテム一つ一つを認識し、それを分類することは一応できる。

目の前のモノから飛んで、自分と他人、幸福と不幸、天国と地獄、男と女、正義と悪などについてはどうだろう。これまた、線引きをしようと思えばいくらでもできる。こうした線引きは意識の持つ確かな一機能であり、この切断機能が僕たちにないと、くりかえすが実生活上で大変困ることが多い。

僕たちはこのように意識の上でものごとを「分ける」から「分かる」のであり、分かることはひとにとって重要なことゆえに、好きな人は細かく分けるだろう。しかし、簡単に分けることができないものがある。たとえば一例を挙げてみるなら、正義と悪だ。今回のアメリカ&イスラエルとイランの武力衝突も、じつに凡庸なるかな、お互いが自らを正義とし他方を悪だと主張するが、この文章を書く今日もまた最新鋭のミサイルやドローン兵器で何の罪もないひとが多数殺されてゆく。2026年3月、人類の持つ攻撃性は理性により克服されていないのが憂うべき現状だ。全くどちらが正義で悪かわかったもんじゃない。

僕にいわせれば正義と悪、あるいは善悪の概念自体が相対的で、そこにいったん両者を分別せざるを得ないのなら、バランスの問題なのだと思う。戦争がひとたび起きてしまえば、悠長にバランスなどと「神の視点」で述べるわけにもいかず、双方の悪と大きな傷だけが残る。全く戦争はどうにかならないものか。これまでの歴史で散々痛い目をくりかえし経験してきたはずの、僕たち人類の平凡な、巨悪と傷の反復。

ところで、意識による線引きの機能は僕たちのウチとソトの感覚の識別とも関係している。

穏やかなところであらためて考えよう。日本の場合、温泉宿じゃなくても観光ホテルと名の付いたところに泊まると、ロビーや食堂に浴衣やスリッパ履きの客がいる。皆さん、思い思いにくつろいでいる。要は建物内が日本人のウチの空間感覚になっている。ところが、外国人にとってこうした状況はまことに奇妙に映るようで、かれらからしてみればホテルの自室がウチで、扉を開けて一歩でたらそこはソトの感覚なのだという話を聞いたことがある。確かに日本の浴衣はたとえば欧米でいうところのバスローブに当たる。日本人でもまさかバスローブ姿で宿のロビーに足を運ぶことはあるまい。たしかに。(続く)