自分の思ったことを自由に言う、そして他のひとが自分と違うことを言うのを聞くことはほんとうは楽しいはずです。
しかし生来の性格から人前で話すことが苦手で、大学時代のゼミでの20人、30人規模のディスカッションの時は本当に困りました。発言のとき、思うこと考えていることがうまく言えないというよりかは頭の中が真っ白になり失語状態になる。周りは信頼できる人ばかりなのに、そうなると、自分の意見がなんだったのかもよくわからなくなり、発言することが怖い、やめておこうという悪循環におちいった僕自身の苦い経験、「お前、ゼミで静かで何も言わないよな」と、ゼミのメンバーから指摘されてまもなくそのことが自分自身のコンプレックスに陥った経験は決して忘れられません。
ですから今でも大人数になればなるほど人前で議論することは苦手なのだと自認しています。それに較べれば書いてものをかんがえるほうがはるかに得意で、自分を出せるなあという感じが今でも僕の中にはあります。では、このような自分がどうしてTALK ROOMの企画をするのか、理由は3つあります。
ひとつにはこうです。子どものころから人前で何かものを発表したり、みんなとディスカッションをする機会を重ねていれば少しはもうちょっと…という思いから、現在多くの小中高の学校現場でなかなか手当てができていないディスカッションの場を提供することで、かつての自分のような発言の苦手な子どもの一助になるのではというやむにやまれぬ思いがあったためです。「シャイな人大歓迎」と案内に書いたのはその理由によります。内気である子ども、おそらく僕はその内気の感覚に善かれ悪しかれ反応できるアンテナを持っているのではと思います。ほんとうは自分の意見と他者の意見を交えることはお互いに生産的で楽しいはずで、他者からていねいに自分の意見を聞き取られる経験があれば、子どもはもっといろいろなことを言うことを望み、じぶんの言葉で語りはじめるのではないかと思うのです。
2つめには、コロナ禍前までの5、6年間、都立高校推薦入試、ほぼ必須の「集団討論」(いまでは一部の高校が実施するに留まる。)の練習で、はじめのうちは議論する姿がぎこちなかった中3生たちが、回を重ねるごとに他者の意見を引き受けながら自分の意見を言うようになる、その成長に毎年こちらが驚かされた素敵な経験が僕にはあります。一年かぎりではない、毎年のように僕は子どもたちの上達ぶりに目を見張り、そして感激していました。はじめは議論が苦手であったはずの、どちらかといえば自分と似た引っ込み思案な生徒たちも「先生、もっと練習やりたいよー」というのでしたから、それも僕にとってはうれしいことでした。この練習が何か子どもたちの潜在的な、語り合うことへの要求に応えているのではないかと思ったことでした。
コロナ禍明け以降、都立高校入試の「集団討論」必須化がなくなり残念ですが、それなら、もっと小学生くらいから、子どもたち同士で楽しく共有できて、少しパブリックな感じの雰囲気のする話し合いができる機会をこちらが提供できればという思いが以前から僕の中にありました。
3つめは、現在の子どもたちを取り巻く言語環境の危うさについてです。この環境は完全に年長世代のおとなたちが作り上げてしまっているものと断罪しますが、これだけ社会の多様性だとかSDGsが用語として社会のなかで流通しながら逆に、やさしさのない、攻撃性が先鋭化する言葉がひろく塾の内外の子どもたちのあいだでも蔓延(まんえん)しているのはいったいどうしてでしょうか。また同時に、おとなが耳をそばだてないと聞き取れないほど、か細く、おとなしく、口をつぐむ子どもが昔に比べて増えてきたのはどういうわけでしょうか。
ともすると、子どもの発することばの攻撃性と、ことばの使用を極力ひかえるおとなしさは、一本の直線の両極にありつつ、同じ地平に同居しており、それが個人の資質に原因があるのではなく、私たちが生きる社会とか環境そのものに由来しているのではないかという問いが浮かび上がります。
あるいは、日常的に見られる子ども同士の友達関係のあり方についてここで言及しても構わないでしょうか。
ちょっとしたからかいやツッコミの関係が子どもたちの集団のなかにもあります。辛口になりますが、周囲にある種の笑いにもたらす「友人」だという者同士の「退屈しのぎ」の関係です。それは多くの学校に通う子どもにおいて、おそらく日常的なものです。
しかし、いざという場面でこのような関係がどれほどのレベルの連帯や利他性を発揮しうるのか。
関係のもろさと強さは、普段子どもが置かれているわたしたちおとなの文化的価値観や言語環境の下からの支え次第で左右されるのではないか、そうしたことを考えます。
TALKROOMを開きたいという動機そのものが、僕にとっては再帰的に子どもだけでなくおとなにも突きつけられるTALKのテーマになり得ると思うのです。そうした個人的な私見が僕にはあります。皆さんはいかがでしょうか。
おとなのあいだでは、社会の分断が以前よりも確実にひろがっており、それゆえ孤立した個人が多く、熟議(もはや古臭いのかもしれません)や合理的な話し合いよりも、非合理的で表層的なSNSとかのイメージやアピールで多数派の言論空間がまるで「祝祭的」に、あっという間に形成される世の中です。
そこにいざというときの(災害が起こった場合や政治権力・指導者の統治の正当性が問われる場合において)、ほんとうの意味での民衆の連帯はあるのかどうか。持続可能な意志疎通ないしはそれを保とうとする仲間意識があるのか。さらにはわたしたち民衆のあいだでどこまでの範囲で仲間意識があるのかどうか。(家族、身内の範囲でしかないのか、それとも同じ地域に暮らす人たちまで仲間ととらえられるのかどうか)僕は個人的にそこに地域の人たちまでを仲間と捉えられることに現在、疑問符を付けるのであって、そこは、言論的弱者でもいい、子どもの置かれている現場から一矢を報いたいという気持ちが強くあります。
昭和、平成の時代ではうまく展開できなかった、子ども・青年との水平の議論をゆっくり積み重ねる新しいことばの空間が、私どもの塾のような小さな言論空間においても、子どもを主体に立ち上げることには社会的な意味があるのではないか、そのように思います。
「ガチ死ねよ」、「キモ、お前」、「は?終わったね、もう無理、終了!」やらの貧弱で攻撃性に富むこどもたちのことばの空間と、遠慮や沈黙の同居する言語空間はいまや決して珍しいものでもありません。そうした特殊で、残念な言論空間に砂を噛むような思いを一定期間してきたひとりとして、このような事態は畢竟(ひっきょう)おとなが招いているのだと思い、だからこそ、それに抗う意味で僕はこのサークルを一歩ずつ、これまでと違う実践の立ち上げというかたちで関わりたいと思います。
若者の、何気なく、あるいはほんとうに発しようとする言葉には身体性と社会性が伴っていて、未熟であろうと何であろうとかれらの態度は現実の社会の鏡となります。そして安心、安全な言語環境に支えられた子どもたちの言論は上手く進めば、それがどんなに小さいものであっても、身の回りの環境を変える力になり得るのではないか。
以上、大まかではありますが、塾内でのTALKROOMサークルを立ち上げたいと思う趣旨です。
それでは、賛同してくださる方、何卒という思いですが、どうぞお願いいたします。
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