青森出身の詩人、寺山修司(1935-1983)の若い頃の俳句で、いまだ私の印象に残るものがある。「マッチ擦る つかのま海に 霧深し 身捨つる程の 祖国はありや」の一句である。

 現在40代以降の人は、この詩を高校生のときに目にしたことがあるかもしれない。1980年代後半から90年代初頭は、まだ辛うじて前世代の価値観をそれぞれ身体感覚として受け止めることのできた時代だった。私の、この寺山の句の初見の記憶は定かではないが、たしか高2の頃ではなかったかと思う。角川文庫の寺山著「家出のすすめ」か、「書を捨てよ 町に出よう」のどちらかで読んだ。上の句の、モノクロームが似合う視覚的な映像性と、下の句の刺激性が相まって、少しの孤独や感傷の気分にひたる心地よさと共に、「詩人とはこういう言葉をつむぎぐ人種なのか」と、当時の私にはじめて鮮烈な印象を与えた一句だった。

 私は寺山の父親が戦時中の特攻かなにかで死んだことをのちになって知った。戦後まもなく十代になったばかりの少年に、過去の自らの桎梏(しっこく)からの解放への要求があったのだ…、というフレームでこの句を理解した。

そうして、私はそのまま現在にいたる。

 気が付けば、私が10代の当時、遥かに年長者のように思えた寺山修司の没年と同い年の47歳になってしまった。45で亡くなった三島由紀夫はいわずもがなだ。三島は戦後25年も経って、身捨つる祖国がありや、を自問しつつ、祖国の大義のために自害した。両者を思想上、同一平面で語るのは相当無理があるのだが、私にとっては2人とも一定程度シンパシーを感じてきた「異端の先駆者」だ。駆け足で彼らの時代を生きた文学者だと思う。

 二人がもしまだ存命だったら、いまの社会状況についてどういうことを言うだろう、と想像することがある。日本が独自の文化や精神性や政治で、他国に比べなにか秀でて、他国に資するものがあるのかと問われたならば、「そんなものはない」と明言するのではないかと思う。そして自分は、現にそう言いたい。

 現在は、寺山や三島の時代よりも、「私たち」という主語が、誰やどの領域まで指すのか不分明な時代である。皆それぞれ勝手に自由に生きているように見えて、実は日本お得意の「同調圧力」につつまれ、「全体主義」で、コロナの「自粛警察」も流行するありさまだ。コロナ以前から問われていた、他者にたいする不信ベースが、監視社会化が、いよいよコロナ禍のなかで顕在化してきた印象である。

 とくに10代半ばからの若者のあいだで見られる、他者からの承認欲求の増大=SNSで何らかのアクション=現実社会の反応の手ごたえのなさ=傷つき=絶望 という図式は、ひょっとすると一般的である。そのようにわれわれ年長者は心すべき時にきている。

そもそも本当の表現とか自由を手にする者はいつの時代でも少ないが、そして若者も年長者も自分の身を捨つる必要もまったくないのだが、年長者は若者の発するサインにもう少し耳を傾ける必要がある。私たちのなぐさめも叱責も、冷たさも優しさも、この行為のなかに位置づけられるように思う。

「マッチ擦る つかのま海に霧深し 身捨つるほどの 孤立の私」     

少なくとも若い人たちに、こんな詩を詠ませてはならない。